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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良義陽72_木崎原の戦い4_ピチピチ♪チャピチャプ♪(伊東)~ランランラン♪(島津) 】

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この木崎原の戦い(元亀3・1572年5月4日)の事前工作で盲人をスパイに使った島津義弘ですが、
これは義弘だけでなく、島津家そのものが多用してまして、
日新斎ジーちゃんが天文2(1533)年に盲僧をスパイに使ったのが始まりだそうです。
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昔は眼病を患うと、良い薬や効果的な外科的処置が無かったために失明する人が多く、
伊東領だけでも盲僧寺が多数あり、つまりウロウロしてても目立たなかったらしいんです。

ウィキペディアに出てくる島津の間者~三徳院・菊一(盲僧)ですが、
木崎原の戦いの下工作の功績として小林郷からの毎年の年貢米のみならず、真幸院五ヶ郷の家督を許された。

更に関ヶ原の戦いの際にも祈祷を任され、義弘が(とにかく)無事に生還すると、日向十三ヶ郷の家督もゲッツ、一郷につき一屋敷を許されました。
鹿児島にも常楽院という大きな盲僧寺があったそうですが、それに次ぐ大勢力になる。 

よく伊賀者とか甲賀衆とか、相良家にも相良忍衆の伝説(丸目さんが作ったとかなんとか)があり、
「島津は山潜り衆やぁ(by科白は彦摩呂風で)」なんてあるらしい。

が、マニアには悪いが島津忍軍は存在せず「山潜り」とは、島津における隠語のようなもので、
「隠密行動」そのものを「山潜り」と呼んでいたそうです(ソース「本藩人物誌」)

加久藤城攻撃が上手く行かず、やむなく退却した伊東祐信の隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。

旧暦の5月といえば現在の初夏。
兵の多さによる油断と、また折からのむし暑さのため川で水浴びする者が多かった。
伊東軍ではガッツリ水浴び「ちゃぷちゃぷ♪気分」で甲冑を脱いでいる馬鹿者もいたそうだ。
ちなみに川の水位は膝が浸かるか、浸からないかです。

島津義弘は放っていた斥候・沢田八専からその情報をもたらされ出陣、正面からこれに斬り込み沢山の将兵を討ち捨て(つまり首を落とさない)とした。

ここで大将(隊の大将で軍総大将とは別)の伊東祐信は義弘との一騎討ちに敗れ三角田の地で討ち取られる。
その一騎打ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)

木崎原1

・・・・・・・・・・・・大将同士の一騎打ちなんて、そうそうあるもんじゃないんだが(爆

このお馬さんは”膝突栗毛”と呼ばれ大事に扱われ、
人間の年齢にして83歳まで生き、
帖佐(鹿児島県姶良町)の亀泉院に墓碑を建てられ葬られたそうな。

ただ「膝突き」に関しては諸説あって「別の人物との一騎打ちの時だ」とか
「槍じゃなくて弓だぉ」とか
「馬から降りて一騎打ちで膝突いてないし」とか色々です^^

これって斜面のぬかるみかなんかで、たまたま馬が膝突いたのを、カッコ良く言ってるだけなんじゃ(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

お馬さんは、さておき島津義弘は頃合いを見て一時退却。
そのあと伊東軍は、伊東祐信の隊と本隊が合流、白鳥山を抜けるコースで高原城へと退却を始めた。

伊東軍が白鳥山に登ると、白鳥神社の座主が僧侶と農民合わせて300人余りの者に、鉦・太鼓を打ち鳴らさせ、更に白幟を押し立てさせて伏兵を装わせた。

慌てて戻る伊東軍に対し島津義弘は、鎌田政年に兵60人を預け敵の背後に廻らせ、自ら(つまり義弘)は伊東軍に正面から突撃するも破れて後退する。
島津義弘を退却させるために、遠矢良賢を含めた6人が犠牲になってます。

なんていうか・・・・義弘は猛将ではあるけど、名将か?となると考えちゃいますね~~
日本の戦って大将が討たれると兵が生き残ってても負け認定。

だからこそ大将を必死で家臣が守るわけで、
それなのに島津義弘ときたら最前線大好き!やたら弾ける突撃屋だから、義弘を守る為に家臣が身代わりで犠牲にならざるを得ない。

木崎原2
島津義弘だろうか?誰が作成したか不明^^;

代表的な例が「関ヶ原の退き口」での島津豊久だ。
後年の話だが義弘が関ヶ原から脱出し、鹿児島に戻る前に豊久の佐土原に入った。

ここも危険だって知らせに、佐土原から鹿児島に移動することになった時、義弘の裾を捕まえ引き留める者がいた。
義弘の身代わりで討死した豊久の生母だった。

豊久生母「貴方(義弘のこと)様という御方は、、、息子を上方に置き捨てていながら、今また佐土原をお見捨てになられるのですか!?!!。゜゜(´□`。)°゜。」

戦国の女は強い・・・・でもこれが母としての本音の叫びだろう。
これを日記に書きとめたのは樺山氏(豊久生母の兄)だが、義弘が豊久生母に何と答えたのかは解らない。
(戦国ちょっといい話悪い話まとめブログには載ってなかった)

正直言って、管理人が仕えたくないタイプの一人は実は島津義弘タイプ。
単に大将だからというだけでなく、戦場で男たちが命を投げ出すことも厭わない魅惑的な武将。

自分が男で義弘のために死ぬなら「武士として本望」かもだが、
妻や母の立場だった場合は、待つ身としては堪らないわぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ

頼むから大人しく本陣にいてくれ~~~~~~~~~~
だからといってヘタレ無能でも困るしなぁ~~バランスって難しい・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

ちなみに相良義陽は最前線に出たことは無い。
常に安全圏の本陣で大将らしく構えてます^-^
これが普通なんです!!!

島津義弘や蒲生氏郷や黒田長政が、弾けすぎなの!!
普通じゃないから記録に残るのよ!

それと余り知られてないが、島津久保(義弘次男)も島津忠恒(薩摩初代藩主)も突撃タイプ。
まぁあのオヤジと一緒にいれば、似ちゃうわよね~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!

相良義陽が前線に出たのは彼が死んだ時ただ一度きりなのだが それは・またの話 by^-^sio

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