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相良家文書は未確認なんだけど、とりあえず今まで調べた段階では、肥後国人一揆に関し相良側の記録には殆ど記述が無い。
てことで今回のメイン資料は「北肥戦誌」なのだが、この史書は江戸期に佐賀藩士が記したものなので、
肥後に関しては時々??なミスがあるので管理人補正入れつつアップします。
見落としあったら御容赦願いますm(_ _)m
肥後国人一揆を理解するには、国人全般の知識がないと「秀吉陰謀説」に飛びついてしまうだろう。
佐々成政が国人に検地を強制しようとした理由は、超単純だと管理人は推測している。
理由1)佐々成政には蔵入地(領主個人が治める土地)が無かった
ただし全く無いわけではない、「蔵入地っぽい?候補地」はある~
それは秀吉が肥後人から召し上げた土地だ。(それらを全て佐々が貰えた、と過程する)
大まかな没収リスト:島津からは旧相良領の八代郡、相良家からは芦北郡、阿蘇氏からは本領4000町(矢部に300町残る)
前回「検地する・しない」で揉めた隈部親永は、約半分の800町に減らされた。(それでも肥後国人の中ではダントツ)
ジグソーパズルかパッチワークか、佐々の手元に残るのはツギハギ飛び地だらけの土地ばかり。
この状態から佐々本人の取り分(蔵入地)と、佐々家臣団へ配分するというのはキツイ。
それに入府早々というのは何かと金がかかる、最初の数年間は赤字経営を覚悟しないければならない。
毎年入る(であろう)租税の金額を掌握したい、と思うのは当然のことだろう。
理由2)佐々成政は肥後国全体の石高(実態)を知らなかった(じゃないかなぁ~と推測^^)
例えば筑前なら「秋月氏」という勢力がいた。
筑前の新たな支配者は、秋月家の残した土地台帳や検地記録をベースにすれば当面は事足りる。
ところが肥後には一国を統一する者が出て来なかったため、土地台帳は50余人いたという肥後国人が個々に抑えている状態だ。
これでは肥後国全体の総石高が解らない。
(あっちを足してこっちを足して・あれれ??聞いてた石高超えた~ホエ~てな事態が発生する)
理由3)佐々の都合にお構いなく、関白からは実務者レベルで粛々と「肥後一国分の軍役・諸役が課せられる~
佐々は勤めを果たす為に、その軍役・諸役を各国人に割り振らねばならない。
国人から不満が出ないように振り分けるには、やはり前もって検地して石高を知る必要があるんです。
理由4)肥後を兵農分離しようとした。
兵農分離とは国人の独立を認めない。
家臣になるか、ならないか、YESかNOの二択しかない。
というのが管理人の推測。
一方の肥後国人たちは「関白から朱印状を拝領している」ので、佐々の家臣になった覚えはサラサラ無い。
江戸期風に言うと直参のつもり。
関白が求めて来たら軍役・諸役を果たさねばならないが、佐々が軍役ウンヌン~とゴチャゴチャ言ってきても、家臣ではないので「何としても果たさなければならない義務」とは思っていない~
満座の席で隈部に「検地は御免蒙るo( ̄ー ̄θ★ケリッ」と一蹴された佐々成政。
佐々は隈部が嫡男・親泰を不仲だと知ると、親泰の元へ密使を送った。
佐々の密使「父を殺して味方に参じれば隈部本領を保証する」と伝える。
これに隈部親泰は弟の有働兼許・内空閑鎮房を招いて相談した。
「如何に不和とはいえ親を討つ法はない」「父子兄弟一所に討ち死にすべき」と定めた。
このような密使が来る以上は佐々が隈部攻めを考えていることは疑う余地もない。
対策を用意し始めた。
天正15(1587)年7月24日~ならば隈部を攻めんと、佐々成政は6000余騎を率いて隈部親永の城を攻めるべく取り掛かる~
これが・・肥後国人一揆が始まった瞬間だったのだが、それは・またの話 by^-^sio