Quantcast
Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
Browsing latest articles
Browse All 910 View Live

【相良頼房40_法廷闘争?】

https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代 今回は(池田こういち著『肥後...

View Article


2019年挨拶

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。...

View Article


寒中お見舞い申し上げます!

正月休みが長かったせいで やぱり仕事に追われてます。 でも会社が忙しいのは良いことですね。 先日は吹雪が続き、 ホワイトアウトで遭難するかと思った(・・;) 1日三回も雪かきしたのに、 晴れたら雪が融けるのがムカつく。 雪かきの労働力返せ~(TдT) そんなこんなで記事が遅れてますが、管理人はインフルにもならず元気です。 予告としては相良編完結まで残り5話です。...

View Article

混乱してます。

ヤフーブログがサービス停止する! ちょっと考えがまとまりません。 ブログ移行するか迷っています。 セカンドブログ=FC2ブログがあるから でもブログ友の皆さまとバラバラになるし、、、 はぁ、どうしましょ

View Article

Image may be NSFW.
Clik here to view.

【相良頼房41_独り・・・】

相良家家老・犬童頼兄・・・彼の「幸福」は、関ヶ原という戦国最高の檜舞台で、思う存分自分の器量を活かせたことだろう。同時に彼の「不幸」は、余りにも大きな功績を立てたことだった。彼の主君・相良家20代目当主頼房は、剛毅な猛将タイプで、家臣である頼兄の才覚に嫉妬するような狭量な人物ではない。むしろ「ワシだからこそ頼兄を召し使う事が出来るのだ」という自負があったんじゃないだろうか。だからこそ「ワシの死後、犬...

View Article


【相良頼房42_1再び朝鮮の役】

相良家と秋月家の接点は、もう一つあります。それは朝鮮の役です。話を慶長4年から慶長元年に戻します^-^豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年)に亡くなるのですが、当時一つの噂が囁かれていました。それは朝鮮との講和の折に毒を盛られた・・・というものです。出典は例によって「南藤曼綿録」^^/********************************************************...

View Article

【相良頼房43_2再び朝鮮の役】

慶長2年(1597年)・・・相良頼房は再び「朝鮮の役」で渡海~釜山海で勤務した。或る時、番船(敵船)が現れたとの報告に出陣し、これと交戦したのだが防ぎきれず、同じ組の日向衆に被害が出て、さらに敵は意気揚々と巨済島に引き上げる。猛将タイプの相良家20代目当主・頼房は、歯噛みして悔しがったに違いない。同年7月14日~「唐島の番船を崩すべきである」と評議して決定されたので、大名衆は出陣。藤堂佐渡守(高虎)...

View Article

Image may be NSFW.
Clik here to view.

【相良頼房44_3再び朝鮮の役】

同二十日(慶長2年(1597年)8月)、南門をお立ちになり、赤国(全羅道)府中(全州)にお着きになった。府中の城は説得して開城した。府中に五日間ご滞留され、その後、府中をお立ちになり押し進まれると、奥にもチャント中城(機張?)がある。これも説得して開城した。また、その奥にハマンという城(咸安城?)がある。これも説得して開城した。...

View Article


Image may be NSFW.
Clik here to view.

【相良頼房45_4再び朝鮮の役】

南藤曼綿録より赤国(全羅道)を攻める前に、太閤秀吉が高麗人を討ち取った手柄を示すために鼻をそいで差し出すように命令した。諸大名はそれぞれ鼻を納め、相良家からも千八百の鼻を納めた。太閤秀吉は納められた鼻の数を帳面に付け、京都東山の大仏殿の楼門の前に鼻を埋め、その上に五輪の石塔を立てた。現在、鼻塚と呼んでいるのがそれである【※】【※】京都市東山区の豊国神社門前にある史跡で、耳塚という呼称が一般的。古墳状...

View Article


Image may be NSFW.
Clik here to view.

【相良頼房39_亀裂】

https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ...

View Article
Browsing latest articles
Browse All 910 View Live