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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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与賀城の話・・略して「与賀バナ♪」

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何が出るかな♪何が出・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

凝り性がゆえに肥前史プチ挫折の管理人・・・(´;ω;`)ウッ
1562年と1563年の記録ループにも、ガチで取り組んだがゆえに脳疲労に拍車・・・il||li _| ̄|○ il||l
研究、頑張りすぎて視力が落ちて、メガネを変える羽目に・・・トホホ

(´;ω;`)ウッの与賀記事が、グーグル検索第5位・・・il||li _| ̄|○ il||l
凝り性・・・ってことは完璧主義気味なわけで、
現在「通説無視で考察爆走した記事全てを書き直したい欲求」と理性が戦ってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ほ・・ほんとにやり直したい・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` ←←理性:最低でも1年分だぞヤメレ
やり直すなら、肥前千葉氏編からジックリと・・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←←理性:おぃ2年分かよ!
読み下した古文書も盛り込みたい・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←←理性:今後も出るゾ、我慢しなさい!

あzっざあああああざああああああああああああああ!!!やり直してぇええええええええぇええええええええ
と言う気持ちにフタをするのに必死^^;

道産子という地域ハンデがある自分は、一つの情報を得るのさえ、膨大な時間と労力を要する。
肥前史リサーチを本格的に始めたのは4年前で、与賀城の情報に辿り着くのには、3年かかった。
で、佐賀市史・・実はWEBで公開してます・・・途中から教えてもらって判ってたけど見なかった。

市史って、どこもだけど同じ県内の市史とでさえ、データの整合性をとってないんです。
同じ県内に起きた一つの戦がA市とB市では記述が違うなんてザラにあるし、
一次史料があるのに、なぜか二次史料が典拠だったりと、ヽ(。_゜)ノ へっ?と逆に迷う。
それでブログでは気楽に自由に書きたくて、市史の通説とは距離を置いてました。

それはさておき、ブログと違い史学論文の世界では、通説と違う持論を展開したければ、
典拠となる史料を出さなければならない。
でなければ、ただの妄想か思い込みとして査読の段階で弾かれる。

「査読の理解が不十分で・・」などという発言が、論文の世界で認められる事はない。

自分が困ったのは「与賀城が機能してた時代」が、「論文のテーマとして扱う時代」と、モロ被ってる点(-ω-;)ウーン
だから、もう一度、考察&推考しなおさないと先に進めず、肥前史に関する思考もソコでSTOPしてるという訳です( ̄ω ̄A;アセアセ



佐賀市史では与賀千町を「龍造寺先祖代々の領地(`・ω・´)キリッ」と記述している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鎌倉時代は少弐が与賀の地頭じゃなかったっけ?
まぁソレはいい。
少なくとも室町期以降は龍造寺エリアだったのだろう。

与賀が龍造寺エリアならば、少弐を迎い入れる為に与賀城を龍造寺が造ったという記述には妥当性がある。
困惑するのは、与賀神社にある境内社「少弐神社の由緒書」では、少弐政資が与賀城をビフォーアフターしたとされてることです。
湊を津へとグレードアップし津町へ禁制を出したと由緒にある。

ところが佐賀市史では、津の命名こそ少弐になってるものの、津町への禁制は龍造寺が出した事になってる。

あ、いま思いついた
「今までの記事は少弐神社の由緒書が典拠だ」と入れればOKじゃん(・∀・)ピコーン★!

良かった・・゜・(つД`q。)・゜・自己完結~~これで記事やりなおししなくて済む(←気持ち的な落としどころ)

ところで、佐賀市史と神社の由緒・・・・どっちが正しいのだろうか・・
佐賀市史の典拠は江戸期二次史料です。
神社の由緒が一次史料典拠なら、与賀城に関する記述は少弐神社に軍配があがる。
(ただし由緒を補完する他史料がないので、100%史実認定は厳しいかも)

実のところ「与賀庄が元から龍造寺エリア」という大元の部分をシオは疑ってます(爆

①与賀が龍造寺エリアの場合⇒没落した少弐を受け入れ支援した忠義の家
(それを滅ぼそうとした少弐って酷い!の意が含まれる)
②与賀が少弐エリアの場合⇒⇒主家が衰退した隙に与賀を侵食した龍造寺がチャッカリしてる

自分は少弐神社由緒に②のパターンを混ぜ込んで考察してました。
「与賀大明神御鎮座記」によると建長2(1250年)の時点では、少弐氏2代目・少弐資能が地頭として少弐神社の鐘を鋳造し寄進してます。
龍造寺が龍造寺村地頭になったのが、文治元年(1185)。
村中城という由来は「龍造寺村の中」の意。

鎌倉時代は少弐が与賀の地頭だった・・・室町初期の動乱のなかで、少弐氏が没落。
一方で台頭したのが龍造寺で、室町後期に名前が出るのが13代目・龍造寺隠岐守家氏。
長生き剛忠(家兼)の祖父なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

13代目は、亡命してきた少弐教頼を受け入れ与賀の館を造って迎い入れた人物。
室町後期~戦国初期に、少弐と所縁が深くなるのは、この13代目・龍造寺家氏からなのよね。
むろん、このころすでに与賀庄は龍造寺エリアだったのだろう。

というのは、龍造寺が与賀庄をゲッツしたのなら、
少弐(鎌倉期与賀地頭)が衰退した室町初期の頃になるはずだからです

さすがに、そこまで論文に盛り込もうとは思いません^^
考察を重ねた推論なので典拠ゼロですもん^^;

与賀庄を龍造寺がゲットしたのが、いつごろなのか?
それが自分の中で4年前からの疑問だったんですが、
佐賀市史と龍造寺文書から手繰っていくと、室町初期には上手いことやってったって事になるwww

ただ、そうなると少弐政資の功績を記述した少弐神社由緒書と矛盾してくるんだよな~
とはいえ、少弐政資が少弐中興に成功するまで、龍造寺が何らかの寄与してたのは間違いないだろう。



あ~~やっぱ、こうやって記事に書いてくと、推考・考察がまとまるわ~~
あとは、どうやって序論・本論と盛り込んでまとめるかだな~~
詰め込みすぎて「こいつ何が言いたいんだ?」ってならないようにしなきゃだし・・・

通説と(気持ち的に)折り合いつけたので、またジックリ取組みます♪ヽ(*´∀`)ノ
あ、記事再開は論文が落ち着かないと、年代が全然違うんで同時進行無理~~
もうしばらく肥前戦国史記事は、お休みしますので、何卒ご了承くださいm(__)m

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※今日は考察で一日使ったので、訪問とコメント返事は明日以降になります^-^





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