信長協奏曲~今日も面白かった(*´pq`)クスッ
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※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
ザックリ駆け足予備解説につき過去書庫・島津薩州家編参照です。
書庫・薩州家編全18話をどこまで圧縮できるか、自分との闘いなシリーズです(爆
島津氏(奥州家)11代目当主・島津忠昌
ウィキペディアには『若年(12歳で継いだ)であったため島津氏内部で内乱が発生し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる』
と簡素に書かれているが、内乱が発生したのは若年だけが理由ではないと自分は推測してます。
忠昌が若年だからではなく、忠昌を後見するシッカリした人物が不在だったからだと思います。
祖父(9代目・忠国)と父(10代目・立久)が亡くなった以上、頼るのは生母の父・・外祖父が穏当な流れなのですが、
側室(茂山夫人)だった生母の父は島津家臣でした。
やはりウィキペディアに忠昌生母は『茂山夫人(梶原弘純の娘)』とあるんですが、梶原弘純は島津メジャー二次史料である『本藩人物誌』に載ってないんです。
別の二次史料ですと忠昌外祖父・梶原弘純は、義経と不仲で有名な梶原景時の三男の子孫ということで、1545年加世田城の合戦で戦死となっているそうですヽ(。_゜)ノ
えっと・・・1508年に46歳で死んだ忠昌より長生きで戦死って、人間の寿命を超えてるような・・・ゲフゴホ
とにかく島津家臣という事以外は来歴不明で、『本藩人物誌』にも載ってないとなると、少なくとも門閥とか名族の出ではなさそうです。
庶子だった忠昌は家督を継ぐ前は僧侶だったので、そもそも島津当主となるための教育を受けていません。
ですから子弟教育の過程で、当然いるべき乳兄弟や遊び相手(将来の幹部候補)もおらず島津家中の人間関係の中では孤立してたと思います。
また島津宗家宿老といえど、実力者揃いの分家当主を家臣の立場でコントロールするのは・・
まぁ、無理だったから「国中騒乱」になったんでしょうね。
正室には大友政親の娘・天真夫人を迎えてます。
大友は島津家中の内紛に、ちょっかい出してたようなので、その和睦で政略結婚したのか?
政治背景が乏しい忠昌の立場を補完するためだったのか?
両方の意味だったのか?
駆け足で齧っただけの自分レベルでは判断できませんです。
ただ大友家も家中を真っ二つに割った親子で争う壮絶御家騒動でグダグダになり、立ち直るのに時間かかります。
それで縁戚として極端に深入り介入されるのは、回避できました( ̄ω ̄A;アセアセ
さらに不運だったのは忠昌が相続して間もない時期に天変地異が相次いだことです。
その天変地異とは、桜島の文明大噴火です。
まず忠昌クン相続前から桜島の噴火が始まってます。
文明2(1470)年1月20日に9代目忠国が死亡
文明3(1471)年9月12日~桜島大噴火(『北側文明溶岩流出』死者多数)
文明5(1473)年?月?日~桜島噴火
文明6(1474)年4月26日に10代目立久が死亡
文明7(1475)年8月15日~桜島南西部で噴火(『南側文明溶岩流出』死者多数)
文明8(1476)年9月12日~桜島南西部で大噴火で死者多数。
海中が二里余り埋まり、沖小島と烏島が形成される。
ほぼ隔年で噴火している上に、合間に宗家当主が二人死亡で次の当主が若年。
とどめで地形が変わるレベルの大噴火で、国内の人心が不安定にならないはずがない。
この地形変化した大噴火の年に薩州家二代目・国久が忠昌に叛旗を翻し挙兵!
薩州家の謀反に豊州家初代・季久と相州家初代・友久が呼応する。
それぞれの細かい挙兵時期は不明です。
この時 忠昌は数え14歳。
年齢からいって11代目・島津忠昌の初陣は、分家たちとの闘いだったと思われるのだが、それは・またの話 by^-^sio