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※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編参照です。
第二次飫肥の役は文明17(1485)年に起きます。
前回、記録が錯綜するほど混乱したと書きましたが、記録が錯綜したのは大乱たっただけでなく、第二次が翌年だったのも一因があるように思います。
第二次の時は島津側が勝利しました。
それも敵側主力である、伊東氏と北原氏の当主が討死という大勝利(=^・ω・^=)v ブイ
島津勢が敵側本陣を奇襲したのが成功したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
んで、味方同士の大ゲンカで逆切れして伊東側に寝返ってた島津の分家・・・
伊作の島津久逸ですが、彼もまた敗れて降伏し、領地である伊作に大人しく?引っ込みました^^
延徳4(1492)年9月23日~伊作で島津忠良が生まれます。
生母は魅惑の美女・常盤~久逸からみて忠良は孫にあたります^-^
同年?月?日~豊州2代目が死亡。
明応3(1494)年~相州家初代が死亡。
宗家当主・忠昌に対し過去に反旗を翻した分家当主たちが、相次いで亡くなり分家当主は世代交代したわけです^-^
明応8(1499)年~薩州家2代目・国久(59歳)が、戦国世紀末を前に死亡(´;ω;`)ウッ
とたんに薩州家では家督を巡り御家騒動になった・・・らしい!!
「らしい」としか言えないのは、戦国末期に滅んだ薩州家の記録が少なくて詳細が不明だから^^;
こういう諍いって急に始まるものじゃないから、おそらく国久生前から内輪で揉めてたはずです。
が、記録がないんで、どんな経緯があったのかは判ってません( ̄ω ̄A;アセアセ
ウィキペディアでは「(島津の)分家を巻き込む騒動」とあります。
で、巻き込まれた島津分家というのが羽州家と伊作の島津久逸です。
詳細は不明ながらも、結果と縁戚関係からシオ推測しますと・・・
どうも薩州家3代目・重久と息子で4代目の忠興が、家督か実権かは判らないが親子で争ったみたい。
で、勝ったのが息子(亡き2代目国久からみて孫)忠興~~(=^・ω・^=)v ブイ
勝ったのがハッキリしてるのは、島津忠興が伊作・島津久逸との合戦で勝利しているから
宗家を裏切ったり、分家の御家騒動に首を突っ込んだりと、はた迷惑な島津久逸59歳は、この時に戦死します。
で、こういうのって尾を引くじゃないですか。
で伊作との和解?と薩州家親子の和解?かな~って感じで婚姻関係になってるんです。
生没年からの類推でいくと・・・
まず、伊作の島津忠良(後の日新斎)と薩州家三代目・重久の娘が結婚(1510年)
次に薩州家4代目忠興の嫡男・実久と薩州家3代目・重久の娘が結婚
実久の婚姻時期は不明ですが、国久死亡が1499年で忠興嫡男・実久が生まれるのが1512年。
実久が嫁とりできるくらいの年齢となると、国久死亡から20年以上、重久~忠興の親子間はギクシャクしてたんでしょう。
で1492年生まれの島津忠良(義兄)と1512年生まれの島津実久(義弟)との年齢差を考えると、
忠良に嫁いだ姉と実久に嫁いだ妹は、20歳以上年齢差があると思います。
ちなみに薩州家3代目・重久は、天文5(1536)年9月15日に亡くなって(享年73)まして、大永5(1525)年に40歳で死んだ息子・忠興(4代目)より長命してます。(出典:鹿児島県史. 別巻・諸氏系図より)
ん~~~となると実久クンは13歳の時にパパ忠興が死んだのか。
てことは、実久と重久娘との結婚は、忠興死後に決まったかもです。
さぁ~ここまで読んでて気づいた人はいるかな?
そうです。
薩州家5代目・島津実久は、実の叔母(父・忠興の異母妹)と結婚し、
その二人の間に生まれたのが島津義虎なんです。
次回~カオス系図が登場~~それは・またの話 by^-^sio