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≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト戦国島津の女達を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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ウィキペディア(元出典は球磨郡誌)によると揉めたのは文明8(1476)年2月20日の事だった。
薩摩国牛屎院の大口城の将・島津三郎右衛門尉が兵を起して菱刈を襲ったそうです。
※室町期~戦国初期くらいまでは、大口は牛屎院と呼ばれていました。
※平成現代では大口も菱刈も合併し、伊佐市となっています。
島津三郎右衛門尉という人物が島津一門の誰に該当するのか・・・とか。
なぜ菱刈を襲ったのか・・・などなど。
いずれも詳細が判る史料は残ってないようです。
『伊佐史』によると、そもそも島津三郎右衛門尉という武将は、菱刈に備える為に大口城に配されたんじゃないか~
という推測を記述しており、島津宗家は薩州家も絡む菱刈や相良を警戒してた・・・っぽいって話。
とにかく菱刈氏は相良為続の舅にあたるという縁から、相良は菱刈支援のために大口城を攻撃しました。
が、落とすことが出来なかったので前年に同盟関係となった薩州家2代目・国久に助っ人依頼。
同年3月27日には日向・北原氏も応援に入った。
で、何やらブランクあいて8月4日に、相良+薩州家+北原の連合軍で島津三郎右衛門と合戦したけど、勝敗が決しなかったそうな。(牛山河原合戦)
で、最終的には9月2日に大口城が落城した。
事態に憂慮した薩州家2代目・国久は豊州家・季久と相談して、相良為続に大口を格護させた。(期間は20年)
ウィキペディアでは国久が相談したのは息子で三男の秀久となっているんですが、これは球磨郡誌か大元の江戸期二次史料の誤記と思われます。
同年に起きる国久と豊州家の謀反は、この大口城を巡る流れと連動しているので、国久が協議するなら相手は息子じゃなくて、実弟で豊州家当主の季久でないと不自然。
これはシオだけの推測ではなく、相良氏を研究している池田こういち氏も著書「肥後相良一族」で豊州家・季久としていますし、『伊佐史』の方も豊州家の季久になってます。
で、注目なのが格護という言葉。
これは歴史民俗用語でして、意味は薩摩・島津氏の領地を占有または保持するって意味なんです。
ということで、そもそも、この大口領を相良為続に任せる権限が薩州家2代目・国久にあったのか?
となると何せ一次史料が不足しすぎで権利関係さっぱりワカランヽ(。_゜)ノ 降参!
どうやら相良為続に大口を与えることに、島津宗家は反対だったようなんです。
当主の忠昌は未だ14歳の少年なので、島津氏家老と国久が対立したってことになると思うんですが、詳しい内情は不明です^^;
島津宗家の反対に怒った薩州家・国久が挙兵、謀反を起こし、薩州家に呼応して豊州家と相州家も挙兵しちゃうわけです。
相州家の謀反が鎮圧されると、豊州家も降伏し、撤兵した薩州家が半独立状態になったのは、薩州家シリーズで記述した通りです^-^
えっと・・・島津氏内部は揉めまくってますが、国久と相良為続の関係は良好だったようで、
薩摩の内乱鎮圧に相良為続が加勢として球磨から大口まで出陣したり(合戦に及んだかまでは不明)
相良為続が名和氏と合戦した時に、薩州家から援軍が出てました。
ちなみに大口領ですが、相良為続の父・長続の時も島津氏から拝領してたそうですが、肥後守護職・菊池氏と揉めて返上した過去があったそうです。
で、相良為続が再び領した訳ですが、肥後守護職・菊池武運の攻撃を受けた時(色々あって揉めた)に、再び相良為続の方から島津氏に返上しています。
こんな感じで大口領&大口城の主は目まぐるしく変化し、カオスすぎて城の来歴伝承と史料による検証が出来てません( ̄ω ̄A;アセアセ
経緯は別にして、薩州家から領地を拝領した相良為続は、薩州家の被官になった事になる訳です。
そして相良為続と縁戚関係だった大隅国衆・菱刈氏も、薩州家と縁戚関係になったのだが、それは・またの話 by^-^sio