長文が苦手な方は三行&大文字説明に飛んでください(^ -)---☆Wink
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大内VS大友の争いが激化するなか、肥前の龍造寺は間接的に大内配下となっていた。
文亀(1502)1月16日、龍造寺家和、千葉興常の推挙で(元)将軍・義尹へ御礼と遂げる(北肥戦誌174P)
千葉興常=東千葉氏=嫡流
少弐が西千葉を立て肥前千葉の家督に介入してきたので、少弐の敵である大内配下となったのが東千葉氏です。
北肥戦誌では将軍と書いてますが、実は亡命中の【元将軍】です( ̄ω ̄A;アセアセ
で、亡命先が大内義興の山口~~
つまり龍造寺家和は東・千葉興常と共に大内領に出仕したことになります。
一方、少弐の方も反撃を開始。
同年月日不明、少弐が西の千葉胤繁と胤治と共に、綾部の渋川尹繁を攻め筑後へと追う(千葉氏略年表)
渋川尹繁=九州探題職=大内の支援受けてる=少弐の敵認定
大内だって黙ってない
文亀3(1503)、大内義興が陶尾張守を派遣し「大友&少弐」と戦う
文亀4(1504)
少弐政資の生き残った息子(幼名不明)、北肥戦誌から算定すると数え16歳。
現将軍・足利義高の赦免で資元と名乗る。(元服か)
間が空き過ぎたので説明すると、現将軍・足利義高サイドなのが大友氏(`・ω・´)キリッ
少弐資元は大友親治・義親の親子からの支援で大内に反撃。
勢福寺城の江上興胤を追放し、勢福寺を拠点とする。
同年2月10日、大内勢VS少弐勢、筑前怡土郡で争う
この争いの中、少弐&西千葉の復活で亡命していた龍造寺胤家が肥前へ帰還。
(※胤家は一族の反対を押し切り西千葉に加担したため一時的に龍造寺を離れていた)
弟で胤家に代わり嫡子となった龍造寺家和に迎えられ、大財端城へと入る。
同年2月30日、文亀は永正へと改元される
ここまでを三行まとめ
・龍造寺は大内配下の東千葉の配下。
・少弐資元、大友の支援で元服し西千葉と共に大内に反撃開始
・少弐氏、拠点を佐賀郡から神埼郡・勢福寺城へと移る
少弐と西千葉が復活するということは、またまた肥前が巻き添えを食うのだが、それは・またの話 by^-^sio