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出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
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永正17(1520)8月、龍造寺胤和が死亡。
弟・胤久21歳。17代目として家督を継いだ。「佐賀市史年表」
北肥戦誌によると兄の未亡人を娶り家督を継いだそうだ。
よくある話じゃないか~~(*´○`)o¶~~♪
ちなみに死んだ胤和は龍造寺隆信の母・慶尼(けいぎんに)の父。
だから胤和は肥前のクマーの祖父^^
新当主・胤久は隆信から見て大叔父にあたります^-^
永正11年(1514)に胤久は、西千葉・胤勝から偏諱を受けて胤久と名乗ってます。
この時は未だ14歳だったから、元服の時の名乗りだったのか|史料|。 ̄)じぃー
更に龍造寺当主になった翌年、永正18年1月11日。
龍造寺胤久は西千葉・胤勝の推挙で「民部大輔」となります。「龍造寺文書104」
ということで龍造寺17代目は西千葉と縁が濃い当主でした。
ウィキペディアによると、胤久は龍造寺家兼の傀儡当主だったとありますが、もしそうなら家兼は物凄いしたたかな人物だと思います。
自分は胤久自身の意志で動いているんじゃないかと思うんだけど・・・(-ω-;)ウーン
西千葉が肥前で頑張る中、かつて少弐一門で今は大内サイドの筑紫氏も力をつけてきました。
大永元年(1521・改元は8月23日)、筑紫満門は焼失してた宝満の上宮を建立する「北肥戦誌185頁」
大永3年(1523)閏3月27日には神崎郡櫛田社を修造し遷宮を行っている「佐賀市史年表」
神様関係で寄進や安堵は武将の実力の証。
少弐氏の忠臣・馬場頼周は、実力のある筑紫満門に「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。
歴代鎮西志によると同年の大永3年に筑紫満門と少弐資元が和睦したことになってます。
だが、その後の馬場の行動を見るに、どうも筑紫は少弐に服属しなかったようなのだが、それは・またの話 by^-^sio
ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・龍造寺胤久(次男)兄の死で家督を継ぎ17代目となる
・胤久は西千葉・胤勝の推挙で「民部大輔」となる(胤の字も西千葉からの偏諱)
・少弐を裏切って大内に服属したのが筑紫満門