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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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25・剛忠(龍造寺家兼)【後編・田手畷の戦い】

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長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink
詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^
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享禄3(1530)年8月15日、大内方は野路宿に打ち出した。
交戦後すぐに大内の先陣は敗れ、少弐サイドから寝返った朝日左近(頼貫)が討たれる。
ちなみに討たれた朝日氏は、これが最後の当主で以後の朝日氏領地は大内代官が治めた。

大内第二陣と戦いの最中、鍋島勢は手勢を3つに分け、
田手畷の南方に廻って身をひそめると、大内勢に打ち掛かるチャンスを待った。

大内方の筑紫・横岳・千葉(東西両方)が一戦に勝利を得ると、さらに少弐を追い立て野路宿の西の畷(田手畷)まで来た。
これを見て鍋島勢・野田清孝の赤熊武者2-300人(100騎)が南の方より横合いに大内勢に攻撃!
大内勢
「Σ(´Д`;)?!なにあいつら?」
「何かの祭礼だったっけ?!」
「熊?━━ヽ(´ω` ;)ノ━━ッ」

赤熊武者は文字通り赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面という異様な出で立ちだったんです。
不意を突かれて混乱した大内勢に竜造寺・馬場らが反撃!

大内勢は頼みの横岳資貞・筑紫尚門が討たれ、さらに千葉方も討死し悉く敗北、奪われた首級は800余に及んだ。
総大将の杉興運は大勢を立て直すべく、大宰府への撤退を余儀なくされる。

少弐資元は龍造寺家兼の軍功を賞し佐嘉郡川副荘千町を与えた。(*´∀`)ノ
龍造寺家兼も反撃のチャンスを作った鍋島清久を賞し、清久次男・清房に孫娘を嫁がせ、
さらに中佐嘉の本庄80町を引き出物とした。
この家兼孫娘と清久次男・清房との間に産まれたのが、鍋島直茂です。

龍造寺に仕えた鍋島氏は、与えられた本庄80町を本貫地とした。
この本庄の領地が、後に佐賀藩主一門として勢威を誇る石井氏の隣だったんです。
それは鍋島氏が、龍造寺準一門として遇される最初の足掛かりとなる重要な分岐点だった。

やっぱ少弐より鍋島の方が目立って・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

直茂の祖父・鍋島清久という人物は、この「田手畷の戦い」くらいしか逸話がないが、かなり優れた武将だったと私は思います。
「歴代鎮西要略」によると「清久の人と為りは質直孝順、而して慈悲仁譲」とあります。
で、歴代鎮西志と歴代鎮西要略では鍋島清久の父が、少弐教頼の子としているんですよ( ̄ko ̄)
事実なら少弐資元と鍋島清久は従兄弟ってことに・・・まぁ事実じゃないだろうな・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

別の逸話(九州治乱記だっけ?)では、清久は家兼に自分を浪人と名乗っています。
良き主と見て龍造寺の元に馳せ参じたという。
歴史の結果として鍋島清久の選択は正しかったことになる。

さてIFになるが、大友と少弐が即効で連携した軍事行動をとれたなら、それなりに少弐は生き残ったかもしれない。
打倒大内のために少弐と同盟関係だった大友は、この時に実は身動きがとれなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
田手畷で大内勢と少弐勢が激突。
鍋島の赤熊武者の活躍が切っ掛けで少弐が勝利。
龍造寺は少弐から、鍋島は龍造寺から恩賞をもらい龍造寺と縁戚関係になる。


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