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【相良頼房7_斜め上に援軍?!~豊後侵攻中篇】

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ココ重要~まず初めに「豊後侵攻」と「戸次川の戦い」はリンクしています。
大将・仙石秀久のブッチギリ遁走と、長宗我部氏の悲劇(嫡男の戦死)が有名すぎて、
時代小説などでも、豊後侵攻との関連に字数を費やしてはいない印象を受けます。

豊後侵攻から見ると、戸次川での仙石秀久の軍行動が「必然だった」ことが解ります。
無謀だろうが、リアル「背水の陣」だろうが、やらねばならなかった「戸次川の戦い」
それは四国勢も承知していたはずです。
長宗我部が仙石を諌めた(?止めた)というのは、後方の豊臣秀吉への配慮(&作戦が失敗した場合の保険)だろうと、自分は推察しています。

さて、以前に豊前で残る大友勢力は「宇佐の竜王館」だと記事にしましたが、御記憶にあるでしょうか?

島津軍北上の動きに呼応して、その豊前で謀反が起きたんです(天正14=1586年の秋頃)

これは島津の同盟相手である、筑前・秋月種実が裏で糸を引いていました。
豊前で大友に対し蜂起したのは、高橋元種(秋月種実の次男)と野仲氏(秋月と同盟している城井氏の支族)で、
その謀反の勢いは豊前一帯に「あっ」という間に広がり、竜王館城主・田原紹忍(たばらじょうにん)のキャパ超えた^^;

8月14日に黒田官兵衛たちが「立花城の援軍」のために、豊前入りしてました。
それは「既に長途遠征に嫌気が差してた島津軍撤退」には役立ったが、豊前の謀反鎮圧には即応出来なかった アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ
手が足りないってことで、秀吉の強い要請を受けた吉川元春が体調不良を押して豊前入りをするんです。

豊前の大友家臣・田原紹忍は、宗麟の正室・奈多夫人の実兄&現大友当主・大友義統の実叔父です。
身内という甘えがあるからだろう、田原紹忍は大友義統に援軍を要請した。
これは・・・・空気嫁!o( ̄ー ̄θ★ケリッ・・・と非難されるレベル。

玉砕した岩屋城も、立花宗茂も、筑後の問註所も、大友に余力ないのを熟知しているので「一度たりとも援軍を請うた事が無い」
身内に裏切り者が出ても、自分たちで対処して「主家に泣きついた事など一度も無い」
これはやはり器量云々以前に武将としての覚悟の問題だろう。

さらに空気読めないのが大友義統だった。
大友義統は「大好きな叔父さんを助けるため」に「援軍するのは当然だ」と普通に素で反応。
生まれながらの貴公子だからだろうか、大友義統には他の大友家臣が自力で奮闘している苦衷を察する心の機微が欠落している。

天正14(1586)年10月上旬~大友義統は田原紹忍の援軍として自らが豊前へ出陣。
この援軍に仙石ら四国勢も同行~
大友の首都・府内はモヌケのカラ~Σ( ̄▲ ̄ノ)ノげぇっ~

仙石を非難するなら「この行動」です。

なぜなら豊臣秀吉は「自分が到着するまで勝手な軍行動を禁じて」いたからです。
だが功名に逸った仙石は、大友義統を止めるどころか四国勢を引き連れて豊前へ同行した。

キング・大友、真の崩壊は、ここで起きた。
大友義統の行動にブチ切れた大友家臣が島津へ寝返った!

大友義統の実弟・田原親家、志賀家から一族が、入田家が島津へ内通~
(O ̄∀ ̄)ノ「いま、府内は留守~~」と、大友義統と四国勢の軍事行動をバラした!
Image may be NSFW.
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家紋・大友
ロン様作成:大友家紋ロゴ

家族関係が泥沼だった大友家で「たった一つの絆・・・それが田原紹忍の存在」でした。
奈多夫人にとっては田原紹忍は実兄、いわば実家みたいなものなので何くれと相談してたし、大友義統も、ママン奈多が信頼する田原紹忍を厚遇した。
で、超人間不信の大友宗麟までも「田原紹忍だけは信じてた」。

田原の能力はハッキリ言って疑問符が一杯(大敗北した耳川の戦いの大将^^;)
でも田原は道雪のように「諫言」しません、返事は常に「YES」なんです。
超人間不信・自分探しするフェアリー宗麟にとって、信頼度と能力値はイコールじゃないんですよ・・・( ̄  ̄)トオイメ。。

宗麟&義統は田原紹忍をプッシュ・エコヒイキし、一時は大友家臣の中で最大の版図を保持してたほどです。
田原紹忍は寺社奉行の要職にあるのを良いことに、寺社関連の裁定は自分に有利な(奈多神社・大宮司なんで)ように下していました。
神社仏閣勢力が大友を見限ったのは宗麟がキリシタンなだけでなく、田原紹忍の不公平裁定にも原因があるんです。

田原紹忍に対するエコヒイキが、ず~~~~~~~~~と不満だった大友家臣にとり、「豊前だけ援軍」で遂に堪忍袋の緒が切れた!

北上が不完全燃焼だった島津家にとって、まさに千載一遇の大チャンス~
同年10月中旬~島津軍の豊後侵攻が始る
島津家久軍~日向口より侵攻開始
島津義弘軍~肥後口より侵攻開始
義弘 (O ̄∀ ̄)ノ「相良さぁ、そちらの内田伝右衛門と菱刈源兵衛と岡本頼氏を従軍させっど~ちぃっと借りるでごあんど~
それは・またの話 by^-^sio 


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