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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【山内・神代勝利のリベンジ】龍造寺隆信「覇」の巻 1

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神代勝利が亡命先である筑前長野からリベンジした年は、弘治3年説と弘治4年説がある。

三瀬村誌(佐賀市保有)によると弘治3年(1557年)
北肥戦誌(九州治乱記)によると弘治4年(1558年)

佐賀県佐賀市三瀬は何と言っても神代勝利の御膝元だ。
三瀬村誌の説に軍配をあげたくなるが、筑前側データに基づくと弘治4年になる。

神代は亡命する時に、筑前糸島の原田了栄を頼った。
その時期が原田氏の記録だと弘治3年になっているので、必然的にリベンジは翌年の弘治4年となる。
本記事は北肥戦誌に基づいているのもあるので、この話は弘治4年に起きた事として進める。
(以下、緑枠文字は「北肥戦誌」からの引用)

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130113151825b3b.jpg 神代勝利イメージ画像
弘治4年(1558年)1月1日、昨年末の夜中に打ち出ていた神代勢は、雪を踏み分けて熊川へ出て、東雲(夜明け前、空が白んで来る頃)と共に熊川の代官を攻撃した。
熊川は佐賀県佐賀市富士町にあり、熊の川温泉があったりする(*´pq`)
ちなみに2kmちょっと西(地形無視の直線コースで)行くと、古湯温泉なり~

北肥戦誌には「雪を踏み分け」としか書いていないが、熊川は山に囲まれた土地。
ぶっちゃっけ神代勢は年末年始にかけて、山越えを敢行したんです。
もともとが山岳地帯に棲む人々なので、冬山&凍傷予防対策の知識はあったんじゃないかな~
動揺した代官所の者らは一人残らず討ち取られた。勝利はそのまま熊川に陣を布く。
時節的に大雪が谷を埋め、身動きが取り辛い中での在陣であったが、河上の小野式部が粥を煮て持参した。
三瀬村誌によると、この小野式部は川上(←地名)与止日女(よどひめ)神社の社頭だったそうだ。
神社の正式名は「與止日女神社(佐賀市大和町川上1-1)」
来年2014年が建立1450年記念大祭という、すごい古い神社で実は「肥前一の宮」!(゚ロ゚屮)屮

與止日女神社は川近くにあり、かつて川上川と呼ばれていたのが、嘉瀬川(または佐嘉川)のことです。
神社周辺の河川流域は聖域として殺生禁断!(`・ω・´)キリッ
神社近くの川に棲息する魚(ナマズらしい)は漁を禁じられていたそうです。

それほどの社格を誇る神社の社頭が、粥を持参して神代の帰還を歓迎したのだ。
神代勝利が、いかに周辺住民の人心を掌握していたかを彷彿とさせるエピソードです。
てか「肥前一の宮」神社に支配を嫌がられた(らしい)龍造寺って・・・不味くね?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それ(小野の差し入れ粥)に気力を満たした神代勢は龍造寺の代官らを追い出し、山内へと戻った。
(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ!!頭領~~~お帰りなさい!!!
山内の者らはこれを喜び、再びの従属を表した。
再び「三瀬村誌」より
龍造寺から派遣された代官は複数だったらしく、山内の要所に配置されてたのだが、それらは悉く討たれた。
神代の帰還に勇んで続々と集まった山内勢は、3000余騎にも達したらしい。
バタバタとした帰還で、歳の餅が用意できなかったので、大釜に小豆をぶっこんで煮込み早拵えに餅を作った(御汁粉?)そうな。
こうして作った餅を山内では「なべほぐり餅」「隣知らず」「たどし」等々と呼ばれた。
ちなみに、小野の用意した粥と即席餅は神代家正月の吉例となり、正月の歳とりに食べるのが習わしとなった。

山内地方では近世まで、その習慣が続いていたらしい。
小野式部は「差し入れ粥」の功績で、毎年米十二石が褒美として与えられた。

旧領を取戻した神代勝利は、龍造寺隆信の敵として再び対峙したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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