黒髪山は伊万里市・武雄市・西松浦郡有田町の市町境に連なる黒髪山地の中心となる山です。
(黒髪山地以下縦列順~英山-前黒髪-黒髪山-見返峠-青螺山-青牧峠-牧の山-越の峠)
(黒髪山地以下縦列順~英山-前黒髪-黒髪山-見返峠-青螺山-青牧峠-牧の山-越の峠)
新日本百名山及び九州百名山の一つですが、標高516mと高さは程々。
それが歴史上で特別視されてきたのは、奇岩が多いので修験者が萌え・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!
それが歴史上で特別視されてきたのは、奇岩が多いので修験者が萌え・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!
ゲホグホ・・・奇岩があって古来から修験道の聖地だったからです。
特別だった証となるのが「黒髪神社(武雄市(旧山内町)」
鳥居は肥前鳥居なんだけど、一般的な肥前鳥居のよりスタイリッシュ?です
それはさておき、何故か末社に「聖徳太子社」があるのが珍しい。
特別だった証となるのが「黒髪神社(武雄市(旧山内町)」
上宮が約2千年前からあり、下宮が創建715年、肥前最古の神社
鳥居は肥前鳥居なんだけど、一般的な肥前鳥居のよりスタイリッシュ?です
それはさておき、何故か末社に「聖徳太子社」があるのが珍しい。
いや一番珍しいのは参拝。「二拝三拍手一拝」なんです。
普通「二拝二拍手一拝」
出雲や宇佐「二拝四拍手一拝」
ですから、いかに珍しいかお分かりになると思います。
普通「二拝二拍手一拝」
出雲や宇佐「二拝四拍手一拝」
ですから、いかに珍しいかお分かりになると思います。
この黒髪神社には鎮西八郎為朝の大蛇退治の伝承があります。
この退治の時に為朝の弓を評定(確認)したのが、時の後藤氏当主・後藤高宗でした。^-^
後藤氏は平安時代から武雄の塚崎に土着してますからね(^ -)---☆Wink
この退治の時に為朝の弓を評定(確認)したのが、時の後藤氏当主・後藤高宗でした。^-^
後藤氏は平安時代から武雄の塚崎に土着してますからね(^ -)---☆Wink
ちなみに大蛇は為朝の弓で深手を負いながらも逃亡、そこへ偶々通りかかった盲目の僧・行慈坊が短刀でトドメを刺したそうです。
盲目の僧は異様な気配を感じて思わず殺ったのが「肥前国有田郷の白川の池に棲んでた大蛇」と知ると、
「やべ!まさかの神の使い?」(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とチキンハートになり、神の祟りが起きないようにと「大蛇が悪事を働いたので退治したんです」
って言い訳・・・もとい、縁起を伝承したそうです。
盲目の僧は異様な気配を感じて思わず殺ったのが「肥前国有田郷の白川の池に棲んでた大蛇」と知ると、
「やべ!まさかの神の使い?」(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とチキンハートになり、神の祟りが起きないようにと「大蛇が悪事を働いたので退治したんです」
って言い訳・・・もとい、縁起を伝承したそうです。
この黒髪神社の大宮司家が黒髪氏。
どうも武士化してたようで、後藤氏の配下だったみたいなんですが、さすがにコアすぎて黒髪氏データは入手できませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ
どうも武士化してたようで、後藤氏の配下だったみたいなんですが、さすがにコアすぎて黒髪氏データは入手できませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ
その黒髪氏と後藤職明に関する史料が残ってます。
ここで再確認してほしいのは冒頭の黒髪山の位置です。
明応5年12月、黒髪右京亮家俊が黒髪神社大宮司職を継ぐことにつき、職明が与えた允許(許可)状が黒髪神社に残っているそうです
つまり大宮司・黒髪氏が領する黒髪神社・神域エリアは、後藤氏の影響下にあったということです。ここで再確認してほしいのは冒頭の黒髪山の位置です。
黒髪山は山ですから、武雄市だけでなく、伊万里や有田町にも跨ってます。
当然、松浦党伊万里氏も聖地・黒髪神社に所縁がありました。
当然、松浦党伊万里氏も聖地・黒髪神社に所縁がありました。
実は伊万里氏は後年になって龍造寺に敗れた後に、武雄・後藤氏を頼って逃げ込んでるんです。
後藤氏が伊万里氏を拾い上げ援けたのは、前回紹介した攻守同盟との縁が初めてではなく、
そもそも肥前最古の神社・黒髪神社を通じて、そうとう古くから後藤氏と接点があったからだと思います。
(神社の祭事や大宮司第代替わり神事で絶対鉢合わせする)
伊万里氏が武雄に逃げる時の山越えコースは、上記縦断コースのいずれかを通過してるはずです。
後藤氏が伊万里氏を拾い上げ援けたのは、前回紹介した攻守同盟との縁が初めてではなく、
そもそも肥前最古の神社・黒髪神社を通じて、そうとう古くから後藤氏と接点があったからだと思います。
(神社の祭事や大宮司第代替わり神事で絶対鉢合わせする)
伊万里氏が武雄に逃げる時の山越えコースは、上記縦断コースのいずれかを通過してるはずです。
なぜ黒髪神社を一話使うかと言うと、与賀郡における与賀神社のように、武雄周辺の人々にとって黒髪山と黒髪神社は、大切な大切な聖地だったからです。
それを支配下に治めていたのですから、「武雄の後藤」が如何に勢力ある国人領主に成長していたかをお察しください。
それを支配下に治めていたのですから、「武雄の後藤」が如何に勢力ある国人領主に成長していたかをお察しください。
他に黒髪山の法印であった頼憲には跡を継ぐ候補が2人あったが、 跡継ぎの選に漏れた片方が頼憲に恨みを抱いて「頼憲は有馬貴純と通じて職明を調伏した」との噂を流し、 それを信じた職明が頼憲を矢で射殺しそれにより祟りがあったとの話が伝わっている。 (ウィキペディアより)
ウィキペディアの編集者が微妙に不親切な件~
この場合の黒髪山の法印は寺社でして、黒髪山大智院西光密寺(武雄市山内町宮野黒髪山)のことです。
この場合の黒髪山の法印は寺社でして、黒髪山大智院西光密寺(武雄市山内町宮野黒髪山)のことです。
ただしウィキペディアは間違いじゃありません。
職明の時代は寺も神社も神仏習合してたからです。
おそらく末社の「聖徳太子社」も、神仏習合の名残でしょう。
明治になって、寺社と神社が分離され、現在の形になりました。
職明の時代は寺も神社も神仏習合してたからです。
おそらく末社の「聖徳太子社」も、神仏習合の名残でしょう。
明治になって、寺社と神社が分離され、現在の形になりました。
肝心の祟りですが、黒髪山大智院西光密寺のHPにもなくって判んなかったil||li _| ̄|○ il||l
とにかく黒髪山に関しては神域・寺社エリア、共に後藤氏の支配下だったって事です。
で、法印に選ばれず逆恨みした方が「有馬貴純と通じて」って事は、後藤は有馬と敵対関係だったという事。
とにかく黒髪山に関しては神域・寺社エリア、共に後藤氏の支配下だったって事です。
で、法印に選ばれず逆恨みした方が「有馬貴純と通じて」って事は、後藤は有馬と敵対関係だったという事。
後藤職明には男子がおらず、渋江公勢に嫁いだ娘が生んだ(=外孫)純明(すみあき)を養子に迎えたのだが、
それは・またの話 by^-^sio
それは・またの話 by^-^sio
(画像はブログ友様から了解を得て拝借したものですので、二次配布禁止です。)