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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【終・松浦(まつら)党~上と下と宗家と分家と】西肥前強化期間リサーチ9武家目

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松浦興信が亡くなった1541年、嫡男・源三郎は12歳で元服も未だだったらしい。
若年すぎるということで相続で家中が揉めて、正式に相続したのは1543年だった。

大内義隆から偏諱を受けて、松浦隆信となる。
龍造寺隆信も大内義隆から偏諱なんで諱が被ったΣ(´Д`;)はぅ
お蔭で隆信と諱だけしか記載されてないデータは、前後で龍造寺か松浦か判断しなきゃならない^^;

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松浦隆信イメージ画像

平戸・松浦隆信は、宗家との攻防を繰り返すのだが、宗家のバックアップしてた有馬(有馬から養子・盛を迎えてます)の顔を立てて、1543年に和睦してます。

1550年、南蛮交易を始め鉄砲&大砲購入(明との交易で元々金持ち)交易による莫大な富を得て力を付けました。
宗家押しだった少弐氏は衰退したけど、有馬や波多が宗家と同盟関係で中々トドメを指すところまで行かない。
そこで平戸も味方を増やすために、後藤貴明と養子縁組による同盟を結んだわけです。

局面が変化するのは1562年(or1563年)ネタバレになるが有馬が龍造寺に敗れたからです

さらに宗家押しだった上松浦の波多氏も御家騒動でゴタゴタになり、宗家の味方は身動きとれなくなった。

1563年、平戸・松浦隆信による宗家攻撃が始まる

1564年に平戸・松浦隆信は嫡男・鎮信と諫早・西郷純尭の娘と縁組し同盟関係となり、更に勢力を広げる。
有馬からの援軍もないなか、宗家は3年間も抵抗を続けた。
有馬は1566年に最盛期当主だった有馬仙巌(晴純)が死亡し、勢力が徐々に衰えてました。
この3年間、宗家と平戸では細かい戦が複数あって、ちょっと辿りきれません^^;
で、龍造寺の隆信が仲裁に入り、宗家と平戸は和睦するのだが・・・実質は宗家が平戸・松浦隆信に降伏したんです。

宗家は平戸から養子・親(ちかし)を迎える事になり・・・シオが涙目になる。
つまりね。
降伏した宗家・松浦親==養子==松浦親(コッチは平戸・松浦隆信の次男)
親(平戸に降伏した養父の方)は困った・・・養子と諱が被るからではない。
有馬から援軍なしだったので、平戸に降伏する話も相談してないわけで・・・
ぶっちゃけると、有馬から迎えてた養子・盛の扱いに困ったんです^^;

やむなく親(平戸に降伏した養父の方)は入道して宗全と号して、完全隠棲する。
有馬からの養子・盛は、唐船城主として有田氏を継がた。
あ、有田の方は殆ど宗家に併呑されてた状態なんで無問題です^^b

平戸・松浦隆信次男、丹後守親が宗家・・いえ相神浦・松浦氏を継ぎ、遂に宗家と分家の地位が逆転する

(元宗家・相神浦松浦氏の当主が世襲する官位名は丹後守^^b)
元・宗家は1でチラっと書いたように、最終的には子孫が幕府旗本として残ります。

1568年、新宗家・松浦隆信嫡男・鎮信(数え二十歳)が家督を継ぐ


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松浦鎮信イメージ画像

武家の子弟は二十歳前後で家督を譲られる慣習でした。
諱は大友義鎮(宗麟)からの偏諱です。
父・隆信は1599年関ヶ原直前まで長命(死亡時80歳)し、実権を握り続けたそうです。
とはいえ鎮信は無能じゃないです。関ヶ原の難しい政局の舵とりしたのは鎮信ですから^-^

新宗家・平戸松浦は、龍造寺の台頭で配下になるのを余儀なくされますが、龍造寺が沖田畷で敗れたので再び自立。
九州の役、朝鮮の役、関ヶ原を乗り越え平戸藩として明治まで完走します。
さて、まとめ~ラストは松浦党最大の勢力だった波多氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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