Quantcast
Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
Viewing all articles
Browse latest Browse all 910

【エリア横辺田~龍造寺VS有馬1】龍造寺隆信「展」の巻1

$
0
0
久々~新シリーズにて本編再開~
にほんブログ村 地方・郷土史

肥前国における西と東の最前線・・・・一番、判り易いのが六角川を目安にする事です。
で、彼らが激突する時に、しばしば史料に登場するのが「横辺田」という地名です。

肥前の皆さん、何故ここでばっかり戦うのでせうか・・・
今更なんだが、やっぱり気になって【ぐーぐる】__φ(.. ) 検索検索

横辺田という地名は現代では残って無くて、杵島郡大町になります。
で、江戸時代は代官所がありました。
代官所がある場所って、色々便利な要衝地の事が多いです。

(-ω-)ん~~どう要衝地なんだろう・・・
検索しても具体的なものが出なくて、ちょっと苦労しましたがヒントは旧長崎街道でした。

横辺田は旧長崎街道が通ってて、横辺田から半径7km四方に小城市、多久市、白石町、武雄市と通じてます。
集合離散?するには持って来い。

さらに河川から程よく距離があるので、逆流現象による浸水の心配がない。
ちょっと北に行けば山野なので、地形を利用し布陣可。
山野から下がれば平坦な土地で適度に広く、陣を展開するのに丁度(・∀・)イイ!

六角川流域は有明海の満干潮からくる逆流現象で湿地帯や泥土が多く、
足元を気にせず人馬が駆け回れるバトルフィールドは、自ずと限定されます。
それが「エリア横辺田」でした。

1562年(1563年説有り)有馬VS龍造寺隆信の本格的ガチンコが起きるのだが

その始まりの引き金を引いたのは、キングオブ九州・大友宗麟だった


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81fc9ff3.jpeg

豊後の大友義鎮(宗麟)は、長年同盟関係だった少弐氏再興のために

資元の三男・政興(つまり冬尚の弟)を立てんと図った


少弐氏が中々滅びないのは、ご本人が子沢山・亡命し慣れてる~
というだけでなく、神輿として担ぎ出す勢力が必ずあるからです^^;

自分は九州専門なので他の土地は知らないんですが、九州という地方は守護の権威が失墜するのは早かったと思います。
ただそれはそれで、地域によってバラつきがあるんですけども^^;

更に「守護職はOKだけど、探題職に従うのが(´・д・`)ヤダ」って気持ちも大きい^^;
これはやはり九州が南北朝の争乱を引きづり過ぎたからではないかな~とボヤンと思ってます。

が、失礼ながら遠国(京都から遠いという意味)なので「守護職という権威を敬う気持ち」も色濃く残ってます。
(と言いつつ北肥後だけは完全にフリーダムだったりする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
この矛盾する状態が、名門といわれる武家が中々滅びない事の最大の理由だと思います。

それと大友が少弐再興を言うのは、上位権力者である大友の義務というか・・・
とにかく九州探題にして肥前守護職である大友氏は、同じく守護職に連なる名門少弐氏を保護すべき立場なんです。
少弐氏本人が大友に直接噛みついて来ない限りは、バックアップし続けたと思います。

だからこそ少弐という武門の家が持つ「守護職の権威」に対し、最後のトドメを指すまで手を緩めなかった龍造寺隆信は新しい時代の英雄だと感じます。
北肥戦誌曰く
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多鎮(後の親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。
大友義鎮が有馬にコンタクトをとったのは、肥前で龍造寺に対抗できる勢力というだけではないかもです。
西肥前リサーチ期間に知ったんですが、かつて有馬氏は少弐氏被官(ひかん=家臣)だった過去があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

Viewing all articles
Browse latest Browse all 910

Trending Articles