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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【葉隠の系譜・勇】龍造寺隆信「覇」の巻5

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八戸(於保)氏の最盛期を作った人物が、八戸(やえ)宗晹。
下野守。東肥前十九将の一人。生年不明。
八戸宗晹の妻は剛忠(家兼)の曾孫・・・龍造寺隆信の姉(妹説あり)だった。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130713231642ba2.jpg
(八戸宗晹の漢字が間違ってる・・・il||li _| ̄|○ il||l)

於保氏が、いつから八戸氏を称したのか、正確な年代は特定出来なかった。
てか、そもそも宗晹は次男であり、於保当主じゃなかったはずです。

これまた推測なんですが、
剛忠(家兼)は自分の娘の孫(剛忠(家兼)から見て曾孫)である宗晹の器量を見込んで、これまた自分の曾孫にあたる隆信の姉を娶せて、於保から独立させて別家を立てたんじゃないでしょうか。

曾孫夫婦って事は、親同士が従兄弟だからして、ハトコのカップリングになるのか?(-ω-;)ウーン
島津並みの同族・血族婚です( ̄ω ̄A;アセアセ

この推測でいくと、八戸宗晹が八戸姓を称した時期は、結婚した時or八戸城に入った時orどっちも同時、の三択。
年代が曖昧な最大の理由は、八戸(やえ)城の築城年代、もしくは八戸宗晹が八戸城に入った時期が不明だからです( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに八戸城で検索するのは御勧めしない。佐賀市と入れても検索結果が・・(以下略)

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130713222543f7f.jpg
(うねってる水色線は嘉瀬川~^^/)

八戸城の場所は、現在の龍雲寺(佐賀市八戸1丁目6-35)です。
佐嘉(村中)城&水ケ江城から1kmちょっとの近さ。
於保城(現在の於保天満宮で嘉瀬川リバーサイドカントリークラブの近所)とは3km弱の位置。
於保と龍造寺が連携を組むための「仲立ち」として程よい場所にあります。

剛忠(家兼)は、於保御家再興の後見し、本来なら嫡流でない次男(胤宗~宗晹の祖父)系統に於保家督を継がせ、さらに次男の宗晹自身に曾孫を娶せ八戸城を継がせたんです。
当然、八戸宗晹を自分の一族としてカウントしてただろうし、龍造寺配下とさえ思ってただろうし、それが無意識に態度に出ちゃってたかもです。( ̄ω ̄A;アセアセ

過度な恩というのは、相手の器量次第では毒になります。
普通に一般家庭で考えても、婿入りした訳でもない・自分から頼んでもいないにも関わらず、嫁実家都合で、嫁実家から援助され、家庭に口も手も出されるのを喜んだり、プライドが傷つかない旦那はいないでしょう。

少弐と龍造寺が手切れになった時。。。八戸宗晹は少弐サイドにつきました。

八戸宗晹は嫁実家・水ケ江龍造寺から、いえ剛忠(家兼)から離れ、自立したかったんだと思います


さらに重要なのが八戸エリアの位置。
仮に龍造寺に与した場合、八戸宗晹エリアが、VS少弐、ひいてはVS神代の最前線になります。

ここで思い起こすのが、龍造寺勢に編成されてた(らしい)於保氏が三代に亘り次々戦死し、滅亡しかけたという事実です。
これ以上、龍造寺に便利使いされて、最前線に狩り出され戦死の憂き目は真っ平御免。
自分の利益だけの為に行動したい・・・という欲求が出ても不思議じゃありません。

少弐の陰謀で、90という高齢になって、長男・次男・孫一族を失った剛忠(家兼)。
まさか剛忠(家兼)がリベンジに成功するとは、八戸宗晹も夢にも思わなかったでしょう^^;
ゾンビ復活力という点では龍造寺も少弐とドッコイです。

剛忠(家兼)が死んだ時、八戸宗晹は龍造寺が分裂すると判断したと思います。
少弐の陰謀後、一時期ですが村中と水ケ江は別行動でしたから。
八戸宗晹の最大の誤算は、妻の実弟が肥前の熊と異名をとる英雄だったことなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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