相良史出典元:八代日記、南藤曼綿録、ほか
さて、前年の内乱のドサクサに水俣城を菱刈家に奪われてしまった相良家。
相良と菱刈のヤバイ空気に困ったのが、すぐ側の天草諸島の国人たちだ。
そこで(自分たちが巻き添えになるのを回避するため)水俣城返還交渉で一肌脱いだ。
時期は、織田信長が桶狭間してたころと同じ、5月のことです。
相良と菱刈のヤバイ空気に困ったのが、すぐ側の天草諸島の国人たちだ。
そこで(自分たちが巻き添えになるのを回避するため)水俣城返還交渉で一肌脱いだ。
時期は、織田信長が桶狭間してたころと同じ、5月のことです。
天草の主な国衆は、五人衆(上津浦氏・志岐氏・天草氏・栖本氏・大矢野氏)です。
1560年5月10日~最初に上津浦氏からの使僧が、次に志岐氏の使僧が八代の義陽を訪問(おそらく意思確認
同年5月24日~人吉から八代へ報告「菱刈が水俣内の12屋敷と交換なら水俣城を返す」と返事あり
「12屋敷?なんじゃらほい」って感じだが、現在でも屋敷という地名があるので、領地なんだろうなぁ^^どうも流れを見てると志岐氏が交渉仲介のメインだったっぽいんだが、
いざ返還当日になると~~~
いざ返還当日になると~~~
7月3日~水俣城返還の仲介するよ~と、天草尚種が出て来て船を出し城受け取りに協力した
難しい交渉時にはいなかったのに、城受け取りという目立つ時に 天草氏参上!このあたりの細かい経緯は不明^^;
とにかく水俣城は、無事に相良氏支配下に戻った。
1560年4月8日~国人の合志氏+城氏(菊池三家老の一つ)が、相良と名和の和睦のため使僧を出す
この時代、仲介人無しで交渉することは殆ど無いです。で、使いは都会なら公家もいるけど、地方なら僧が多い(寺院は軍事緩衝地帯です)
もちろん武将が直に派遣されることもある^^bケースバイケース
一時的にギクシャクした菱刈と違い、長年争ってた名和との交渉は難航したようだ。
5か月後の9月13日~合志氏から名和へ使僧が派遣される
9月16日~名和から八代の相良へ和平の使僧が派遣された
はっきりとした記録が乏しいのだが、この時に和睦が整ったらしく、その後・数年間は名和と相良の間で戦の記録が無い。やぁ~~もう~~ほんとにほんとに記録が少ないが(涙目)相良家では上津浦へ援軍出したみたい^^;
だがヒョウタンから駒・禍転じて福となす~~~
だがヒョウタンから駒・禍転じて福となす~~~
千代菊姫は16代義滋の末娘で、系譜上は義陽の義理伯母にあたる。
まず、義陽の父・晴広は名君だったが養子だった。
しかも義陽生母も、いずこの名族姫という訳でなく家臣筋の家柄。
しかも義陽生母も、いずこの名族姫という訳でなく家臣筋の家柄。
義陽の代になってから謀反が起きたのも、単に若年というだけでなく、血統的に嫡流ではない為に軽んじる雰囲気があったかもしれない。
義陽の相良家中における政治的基盤を強固にするために、16代当主の血を引く姫君を正妻にする必要があったのだ。
義陽の相良家中における政治的基盤を強固にするために、16代当主の血を引く姫君を正妻にする必要があったのだ。
肥後が穏やかだった時は殆どないが、大きな圧力が無かったという点で、多少は波が凪ぐ時期だった。
なぜなら肥後守護職の大友宗麟が、毛利家とガチンコになり、肥後どころじゃなくなったからです^^;
この数年間の間に、義陽は自分の命運を決める「決断」をするのだが、それは・またの話 by^-^sio
なぜなら肥後守護職の大友宗麟が、毛利家とガチンコになり、肥後どころじゃなくなったからです^^;
この数年間の間に、義陽は自分の命運を決める「決断」をするのだが、それは・またの話 by^-^sio