さ~~~~張り切って逝きますか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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千葉某安堵状
肥前国佐嘉郡川副下庄袋之内瑞應寺壷所之事
右守先例之旨、領知不可有相違之状如件、
肥前国佐嘉郡川副下庄袋之内瑞應寺壷所之事
右守先例之旨、領知不可有相違之状如件、
永正弐年三月拾六日
平(花押)
龍造寺隠岐入道殿
平(花押)
龍造寺隠岐入道殿
語句解説
瑞應寺
---開基となったのは龍造寺家氏(剛忠(家兼)の祖父)で寺号は、家氏の法号。
壷所
---ワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!寺領だと思う
平
---肥前千葉氏の本姓
隠岐入道
---隠岐守は龍造寺氏当主の事で、開基となった家氏も隠岐守でしたが、年代から言って家氏ではなく次代の康家の事だと思われる。
本文意訳(のつもり)
肥前国佐嘉郡川副下庄袋の内、瑞應寺壷所の事
右、先例之(これ)を守る旨、領知相違あるべからずの状、件の如し
肥前国佐嘉郡川副下庄袋の内、瑞應寺壷所の事
右、先例之(これ)を守る旨、領知相違あるべからずの状、件の如し
内 容
えっと、龍造寺の瑞應寺壷所の領地は先例だから、これまで通りだよ~と千葉誰かさんが安堵してます。
えっと、龍造寺の瑞應寺壷所の領地は先例だから、これまで通りだよ~と千葉誰かさんが安堵してます。
時代背景
少弐氏を中興した少弐政資が、大内に敗れて1497年に自害してます。
で、巻き添えで西千葉氏と龍造寺胤家が肥前から亡命してました。
1504年に、少弐氏は資元を当主として再び御家再興し、西千葉氏も龍造寺胤家も亡命先から肥前に戻ってます。
この安堵状の永正2年は、少弐復活の翌年、1505年の事です。
ちなみに、この安堵に関しても北肥戦誌に記述なし。
少弐氏を中興した少弐政資が、大内に敗れて1497年に自害してます。
で、巻き添えで西千葉氏と龍造寺胤家が肥前から亡命してました。
1504年に、少弐氏は資元を当主として再び御家再興し、西千葉氏も龍造寺胤家も亡命先から肥前に戻ってます。
この安堵状の永正2年は、少弐復活の翌年、1505年の事です。
ちなみに、この安堵に関しても北肥戦誌に記述なし。
考 察
まず前提として戦国時代は主君を複数持つダブルスタンダードOKな時代です。
そもそも室町時代の主従関係が「緩やかな支配関係」でして、江戸期の時代劇イメージの主従関係とは雰囲気かなり違います。
各地の国衆は、実力(財力・軍事力)さえあれば、守護職の被官(ひかん=家臣)でありながら、幕府御家人になる事もOKだったんです。
その緩い室町主従関係が崩れるのが戦国時代ですから、裏切ったり降伏したりが激しくなるはずです^^;
で、龍造寺氏は~というと、少弐氏被官であると同時に西千葉氏被官でした。
が、時代背景にあるように少弐氏が敗れ西千葉も肥前から亡命しちゃったΣ(´Д`;)はぅ
でもって、少弐&西千葉が肥前に復活するまでの7年間・・・
どうも敵であった東千葉氏(大内が後ろ盾)の被官になってたみたいなんです。
みたい・・・ていうのは、例によって北肥戦誌ではモヤっとした書き方しかしてないから。
まず前提として戦国時代は主君を複数持つダブルスタンダードOKな時代です。
そもそも室町時代の主従関係が「緩やかな支配関係」でして、江戸期の時代劇イメージの主従関係とは雰囲気かなり違います。
各地の国衆は、実力(財力・軍事力)さえあれば、守護職の被官(ひかん=家臣)でありながら、幕府御家人になる事もOKだったんです。
その緩い室町主従関係が崩れるのが戦国時代ですから、裏切ったり降伏したりが激しくなるはずです^^;
で、龍造寺氏は~というと、少弐氏被官であると同時に西千葉氏被官でした。
が、時代背景にあるように少弐氏が敗れ西千葉も肥前から亡命しちゃったΣ(´Д`;)はぅ
でもって、少弐&西千葉が肥前に復活するまでの7年間・・・
どうも敵であった東千葉氏(大内が後ろ盾)の被官になってたみたいなんです。
みたい・・・ていうのは、例によって北肥戦誌ではモヤっとした書き方しかしてないから。
北肥戦誌曰く
文亀2年(1502) 1月16日、千葉興常の吹挙(推挙)により、龍造寺家和が将軍・義尹へ御礼を遂げた。
家和は龍造寺康家の子で父の家督を継いでいたが、今回軍忠あって加増され、大身となった為の御礼であった
文亀2年(1502) 1月16日、千葉興常の吹挙(推挙)により、龍造寺家和が将軍・義尹へ御礼を遂げた。
家和は龍造寺康家の子で父の家督を継いでいたが、今回軍忠あって加増され、大身となった為の御礼であった
この文が前後の脈絡なく唐突に出ます。
千葉興常とは東千葉氏初代でして、彼から推挙を受けるという事は、即ち龍造寺が東千葉被官だったという事です。
唐突なんで「今回軍忠」とあるけど、どんな武功で誰と戦ったかは不明。
さらに龍造寺では家督の逆転現象がおきてました。
千葉興常とは東千葉氏初代でして、彼から推挙を受けるという事は、即ち龍造寺が東千葉被官だったという事です。
唐突なんで「今回軍忠」とあるけど、どんな武功で誰と戦ったかは不明。
さらに龍造寺では家督の逆転現象がおきてました。

龍造寺の家督は長男である胤家が継いでたんです。
ですが少弐氏と西千葉が敗れた為に、巻き添えで龍造寺胤家も筑前に亡命する羽目になってしまいました。
この間の事情は不明でして、龍造寺文書にも相続に関する文書はありません。
で、隠居してた康家の後見で次男・家和が龍造寺の家督を継ぎ、以降は家和系統から当主が出て、胤家系統から当主が出る事はありませんでした。
胤家を当主としてカウントするか、しないか、サイトによってバラバラですが、自分個人としては当主になったけど「悔い返し(いったん譲った相続をキャンセル)に遭ったと考えてます。
東千葉氏被官になるってことは、龍造寺は少弐を裏切ってた事になるんですが、何せ少弐も西千葉も政治的に失脚してた期間の話だから、道義的にはギリセーフです。
1504年に少弐と西千葉が復活すると、龍造寺も元の少弐と西千葉の被官に戻ってます。
安堵状が1505年だから、順当に考えると西千葉当主から安堵状になるはずなんですが、イマイチ怪しいwww
復活したと言っても、少弐資元は当時未だ無位無官で政治的に不安定だったからです。
で、更に特定出来ない理由が「寺社関係からの安堵だと西千葉だけとは限らない」って点です。
敵対する東と西の千葉氏ですが、肥前国一宮川上社に関する安堵状だと、両当主連著なんです(出典:川上文書)
てことは寺社関係だと西も東も関係なく「呉越!( °ロ°)乂(°ロ° )同舟!」だったかもなわけで、、、
プロが千葉氏の誰か特定できず某としたように、自分にも千葉氏関係者の誰なのかワカラン(-ω-;)ウーン
あと差出者が、本姓の次に花押のみって、珍しいような・・(-ω-;)ウーン
ところで、今回の文書で判ったのは、龍造寺は歴代当主が開基となって寺院を創建してるって事です
12代目家氏:瑞應寺~佐賀市本庄町大字本庄173
13代目康家:宝琳院~佐賀市鬼丸町12−30
水ケ江初代家兼:乾亨院~佐賀市中の館町7-11
龍造寺隆信:龍泰寺~佐賀市赤松町2-4
うふふ・・・地図で検索して見ると面白いですよ~
全部佐賀城の周辺なの~まるで龍造寺ニャンコがスリスリマーキングしてるみたい(*´pq`)クスッ
寺院建立は実力ある当主でないと出来ません(寄進したり保護したりするから)
逆を言うと、寺院建立してる時期は、龍造寺の勢力が増してる時と言えます(^ -)---☆Wink
13代目康家:宝琳院~佐賀市鬼丸町12−30
水ケ江初代家兼:乾亨院~佐賀市中の館町7-11
龍造寺隆信:龍泰寺~佐賀市赤松町2-4
うふふ・・・地図で検索して見ると面白いですよ~
全部佐賀城の周辺なの~まるで龍造寺ニャンコがスリスリマーキングしてるみたい(*´pq`)クスッ
寺院建立は実力ある当主でないと出来ません(寄進したり保護したりするから)
逆を言うと、寺院建立してる時期は、龍造寺の勢力が増してる時と言えます(^ -)---☆Wink