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さて、相良と島津がきな臭くなってきた事で、運命が大きく変わった武家がある。
それが日向国衆の大河平(おこびら)氏だ。
「おこびら」と一発で読めた人は地元民か相当の歴オタのどっちか^^
大河清盛が放映中は検索するのに不便で不便で(苦笑
国衆と書いたが地生えではなく、元々は肥後八代出身。
それも肥後守護職だった菊池氏の流れを汲む家柄( ゚д゚)ンマッ!!
平安時代末期の武将、菊池氏6代目当主・菊池隆直が祖になる。
名門・菊池氏の末裔であることは、大河平氏の誇りだったことだろう。
祖先の諱・隆直の「隆」が、大河平氏代々の通字(つうじ・諱の中に必ず入れる文字)でした。
直接の祖は菊池隆直の三男・隆俊で、八代に住んでたことから「八代姓」を名乗っていた。
以後、宗家である菊池に従っていたのだが、9代すっとばした次の次・・隆屋の頃に一大変化が起きた。
宗家である菊池氏が大友氏に敗れたんです
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
どうもこれが、名門菊池氏最後の当主・菊池義武が、大友義鎮に対し謀反した時のことらしい。
菊池義武は元々が大友義鎮の実叔父で、大友氏が肥後菊池氏の家督乗っ取りの為に送り込まれた傀儡当主だったんです。
それに不満だった(と思われる)菊池義武が謀反を起こしたが、
自立心旺盛で「難治」と言わしめたほどパワフルな肥後国衆が、
豊後人である菊池義武に従わず謀反は成就しなかった。
菊池義武と妻子は相良氏を頼って亡命し、後に義武と嫡男は大友家によって誅殺される。
菊池義武次男が相良家臣として残りました。
で、八代氏も肥後に留まることができず日向に亡命、米良山中に潜んだ。
ちなみに肥前人が亡命するのが筑後or筑前なら、
肥後人が亡命するのが日向なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
何せ神話の高千穂がある日向山中は、現代でもリアル秘境チックな自然いっぱい^^/
近隣には平家の落ち武者伝説とか、とにかく隠れ住むにはもってこい^^
この時に八代氏の一部は、そのまま米良に土着したそうです。
が、当主の隆屋は一族郎党66家を率いて米良を離れ、日向は北原氏を頼った。
で、大河平郷(宮崎県えびの市大字大河平)に入ると、姓を八代から大河平に改めたそうです。
時は戦国・・・平和は長く続かなかった。
大河平氏の主君である北原氏の家督を狙って伊東氏が動きだしたからなのだが、それは・またの話 by^-^sio