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日向、北原氏の本貫地・真幸院(現・宮崎県えびの市)
1560年に北原家は同じく日向の伊東義祐に家督を乗っ取られ、
1562年には、遂に所領まで伊東の思うがままにされてしまう。
伊東義祐ヾ(  ̄▽)ゞニョホホホホホ 我が世の春近し~~
日向統一まで後半歩か一歩前って感じの伊東氏を阻むため、相良・北郷・島津の三銃士が立ちあがった!
「三氏は北原のため、北原は三氏のため (`・ω・´)キリッ」
このばやい、ダルタニアンは、さがらん・義陽になるのだろうか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
モミアゲふぁいと~相良義陽画像
冗談はさておき、伊東の勢力拡大を抑えるために「北原家の御家再興を支援しよう!」
と、島津・相良・北郷の三氏が手を組んだのは事実だ。
三氏が当主にと推戴したのが北原兼親で、74年前・嫡子でありながら家督争いに敗れたために相良に亡命した10代目当主の甥の孫です。
半ば世間から忘れられてた過去の亡霊を棚卸~~~
そんなんでいいの?
いいんです~~~
他の当主候補は既に伊東に殺され、人吉にいた兼親だけが助かったのぉ~~~。゜゜(つ□`。)°゜。
1562年5月~相良軍始動!~馬関田城まで軍勢を抜いて、北原兼親を飯野城へ入れることに成功(=^・ω・^=)v ブイ
飯野とは真幸院の中にある土地の名前で、飯野を抑えられると地理的に真幸院全体の統治に支障が生じる地域です。
で、相良勢は馬関田城まで五つの城を、わずが一日で抜いた事になってます。
無双すぎる・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
土地勘がないシオは、全くピンと来てなかったので、監修様からレクチャーして頂きました(-人-)☆彡感謝!
まず現在の宮崎県えびの市にあたる真幸院ですが、
どこのサイトを見ても「肥沃な穀倉地帯」というフレーズが、枕詞のようにつきます^^
真幸院の肥沃さを支えていたのが、豊富な水量で北の筑後川に匹敵する「川内川(と支流)」です。
相当に豊かな土地だったらしく、この真幸院だけで45か所も城だの砦だの陣屋跡だのが集中してます。
それだけ分知できるほど物成りが豊富だったんでしょう。( ̄ω ̄A;アセアセ
城跡は河川沿いに集中してるんですが、真幸院の場合は河川沿いにあることに特別な意味はなさそうです。
重要なのは真幸院が肥後街道に通じる要衝地だった事です。
これじゃ周囲が欲しがるはずだ・・( ̄ω ̄A;アセアセ
で、相良勢ですがスタート本陣は人吉の大畑でした。
そこから真幸院に入るとなると、野久首越えコースが妥当だそうです。
判りやすく言うと九州自動車道で人吉から「えびのPA」を目指す感じ^^b
もちろん戦国時代に舗装道路はない・・・山越え峠越えなんでキツイっす(><;)
予測城攻めコース【妙見遺跡(えびのPAあたり)⇒手仕山城⇒徳満城⇒新城⇒馬関田城】
このうち徳満城は城主・北原八郎右衛門尉が、島津・北郷・相良が押し当主・北原兼親に従ってたので、
相良勢に対し抵抗せずに従った可能性が高い。
馬関田城も城主・馬関田右衛門佐が伊東義祐の擁立した北原傀儡当主として三ツ山城に入ってた。
で、で、そもそも馬関田城が「えびのPA」の御近所・・つまり球磨郡寄りなんです。
一方、北原兼親が入った飯野城(亀城公園)って、馬関田城から、かな~~り離れた(直線で5km以上)東にある城なんです。
五つの城が一日で落ちた事。
5km以上離れた東に位置する飯野城に北原兼親が、スンナリ入れた事。
となると、伊東の強引な家督乗っ取りに不満があった者らで、相良勢が入ったら呼応する話が既にあったかも。
もしくは、相良勢を見て早々に降伏したかで、軍事的な抵抗が少なかったんじゃないか~と言う話^^b
さらに島津軍+北郷軍起動!横川城(鹿児島県霧島市)三ツ山城(宮崎県小林市)を落とす!
あぁ~~なんかスッキリ~~ザマミロ・エスパーじゃない伊東~~~(  ̄▽ ̄)ゞオホホホホホ
伊東氏で好きなのは祐兵(すけたけ)だからいいの~~
順調だった北原氏御家再興に暗雲が垂れ込めるのだが、それは・またの話 by^-^sio