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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【領地安堵】大河平氏---2

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えびの市の事件にビックリ(@@)
真幸院と肥後・相良の同時進行マニアック戦国史談ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
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肥後の菊池氏が大友に対し謀反を起こし敗れた事で、菊池氏庶流だった八代氏も肥後に留まる事が出来ず、亡命。
まず米良山中に潜み、その後に当主である隆屋が66氏を率いて日向真幸院の北原氏を頼った。

北原氏は隆屋に大河平に知行を与え、東の国境警固に当たらせた。
以降、隆屋は姓を八代から大河平(おこびら)に改めたそうだ。

系図・大河平氏

とまぁ、ここまでが1話目の流れ。
大河平氏子孫の史書によると、北原を頼る前に上村氏(相良氏重臣)を頼ったとあるそうだ。
で、上村頼孝(相良義陽の実叔父)の謀反(1557年・弘治3年)に加担し、敗れて日向に亡命~北原を頼り(以下同文)

系図にあるように大河平隆屋には三人の息子がいたのだが、嫡男・隆充の次男・隆豊は上村謀反支援で従軍した戦で戦死したそうです。
経緯はともかくとして、1550年から~1557年の間に大河平の地を拝領したので、北原家臣歴は浅く新参者になる。

で、数年たってソレなりに落ち着いたであろう
1559年3月7日に、隆屋の嫡男・隆充が父に先立ち53歳で死亡する。
家督は隆屋の嫡孫・隆利が継いだ。

1559年といえば黒い伊東義祐が北原氏乗っ取りにハッスルしてました。
大河平隆充死去の10日後に、伊東義祐は自分に反抗する北原家臣を「話し合おう」と嘘で呼び出して全員殺してます。

大河平氏が伊東派だったのか、反対派だったか不明だが、隆充死去で喪中だったので外出などは控えてただろうから、
この黒・伊東による粛清騒動に巻き込まれずに済んだ・・・かもです。

問題は、この後。
主だった反対派北原家臣が粛清されてしまったので、新参の大河平としては単独で動きようもなく、なし崩しに伊東に従う羽目になってた・・かも?

永禄5年(1562年)1月22日、当主候補だった北原兼孝が伊東義祐により殺された。
で、その時に大河平家が、兼孝の息子を狗留孫(くるそん)岳で殺したと言う記録があるそうなんです。
うぅ~~大河平ファンとしては信じたくない記述(´;ω;`)ウッ

黒い伊東義祐により北原氏乗っ取りがあった時、生き残った北原家臣の多くは島津氏を頼りました。
「北原の敵⇒伊東の敵⇒島津」敵の敵は味方って事です^^b

息子に先立たれた大河平隆屋も、島津義弘に謁見し大河平領を安堵されてます。
この時点で島津氏当主は、義弘の父・貴久なので安堵するなら義弘じゃなく貴久だろ~と思わないでもないが、
「VS伊東」に関しては、次男・義弘にある程度の権限を与えてたのかな?

とにかく大河平隆屋は、島津から大河平領の安堵を受けつつ、
時節が来るまで表面上では伊東に従う風を装ってた・・・というところでしょうか。

1562年に伊東によって北原当主候補が殺されてから間もない2月13日、大河平隆屋が卒去(享年73)する。
同年5月10日、相良勢が北原再興の為に真幸院へ派兵し、御家再興当主として北原兼親が飯野城に入った。

大河平隆屋が島津に従ったのがバレたのか、単純にチャンスだと思ったのか、
隆屋が病没すると伊東義祐が兵450でもって大河平城を攻撃するのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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