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さて宮崎県えびの市南部の白鳥山北中腹に白鳥神社がある。
祭神が日本武尊~~つまり軍神、だもんで後年の島津家が熱心に保護してました。
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祭神が日本武尊~~つまり軍神、だもんで後年の島津家が熱心に保護してました。
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ちなみに神社のある地域は白鳥の禁漁区^^)
1562年6月21日、白鳥神社に相良家・北郷家・島津家が集い、
1562年6月21日、白鳥神社に相良家・北郷家・島津家が集い、
北原兼親の前で相互助成の起請文を交わした。
島津方代表:伊集院忠倉、北郷方代表:北郷忠徳、相良方代表:深水頼金
弁護士も司法書士も行政書士もいない時代、人々は神前で契約を交わす。
弁護士も司法書士も行政書士もいない時代、人々は神前で契約を交わす。
契約不履行すると現代では損害賠償などのペナルティが生じるが、戦国時代のペナルティは戦だ。
だから力が均衡してる同士や、共通の敵がいる時の起請文は比較的守られる。
だから力が均衡してる同士や、共通の敵がいる時の起請文は比較的守られる。
やばいのは、ミリタリーバランスが崩れた時・・・
相手より自分が有利・・・となるや起請文は紙屑になりかねない。
思い通りになったと思った北原家が、息を吹き返した事に驚いたのが伊東義祐だ。
思い通りになったと思った北原家が、息を吹き返した事に驚いたのが伊東義祐だ。
だが相良・島津・北郷の三氏を相手に渡りあうのは流石にキツすぎる (* ̄* ̄*)むぐぅ~
ところが伊東にとって「救いの手」、北原にとっての「獅子身中の虫」が現れる。
1563年~北原兼親の叔父・北原左衛門尉が伊東義祐に内通した ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
北原左衛門尉(兼親叔父)は伊東と相良を盟約させて、
1563年~北原兼親の叔父・北原左衛門尉が伊東義祐に内通した ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
北原左衛門尉(兼親叔父)は伊東と相良を盟約させて、
真幸院・飯野から島津を追い出そうと画策した。
通説では単なる裏切り者扱いの北原左衛門尉・・・だが、そんなに単純なものだろうか?
通説では単なる裏切り者扱いの北原左衛門尉・・・だが、そんなに単純なものだろうか?
三氏相互支援・・・字面だけはカッコいいが、
そのままでは北原は三氏からの干渉を受け続け、身動き出来なくなる。
そして島津の表看板は「三州(薩摩・大隅・日向)統一」
そして島津の表看板は「三州(薩摩・大隅・日向)統一」
島津「べ、べつに諦めた訳じゃないから!
ちと内輪もめして、ちと国人が手ごわくて・ちと分家が言う事聞かないだけだもん(半泣)」
飫肥城が粘り続けているように、一度島津を真幸院に入れたら「北原支援」を口実に、
飫肥城が粘り続けているように、一度島津を真幸院に入れたら「北原支援」を口実に、
そこから動かなくなるだろう。
島津と伊東のガチ激突になれば、相互支援の恩義で北原は島津の先陣を務めざるを得なくなる。
ついには独立した勢力ではなく、島津に隷属する羽目に陥るかもしれない。
ついには独立した勢力ではなく、島津に隷属する羽目に陥るかもしれない。
「島津からの助力は真幸院復帰まで、あとはいらない。」と、考えても不自然ではないと思う。
ウィキペディアの簡素な説明では、画策する北原叔父へのメリットが記載されて無い。
ウィキペディアの簡素な説明では、画策する北原叔父へのメリットが記載されて無い。
あるいは甥の北原兼親に替わって、自分が当主になる野心があったのかもです。
北原左衛門尉は真幸院関連の記録では吉松城主とあるが、
北原左衛門尉は真幸院関連の記録では吉松城主とあるが、
吉松城は現代では鹿児島県湧水町吉松。
ちなみに島津歳久が落とした横川城が、同じく鹿児島県霧島市。
ちなみに島津歳久が落とした横川城が、同じく鹿児島県霧島市。
横川城は北原の一族が城主でしたが、伊東派だったため島津の調略を拒んで攻撃されて落城し
、城主親子が自害しました。
てことで、戦国時代の「公称:真幸院=北原エリア」は、「えびの市だけ」を指すわけでなく
、
鹿児島県側にも食い込んでたんです。
北原左衛門尉(再興当主・兼親の叔父)にすれば、自分の領地が島津に侵食される危機感もあ
鹿児島県側にも食い込んでたんです。
北原左衛門尉(再興当主・兼親の叔父)にすれば、自分の領地が島津に侵食される危機感もあ
ったと思います。
相良義陽イメージ画像
一方、相良義陽は日向への領土的野心は薄かったようだ。
相良義陽イメージ画像
一方、相良義陽は日向への領土的野心は薄かったようだ。
父祖が残した大口城(島津の大隅地方にある城)を三交代制で守備して堅持している所を見る
と、
領地拡大なら大隅の方に・・・と考えていたかも?です。
1562年・・・三氏相互支援の前の3月13日・
1562年・・・三氏相互支援の前の3月13日・
名和行興が死亡、僅か7歳の子供が家督を継ぐ
幼君誕生で名和氏周辺は、俄かにキナ臭くなる。
幼君誕生で名和氏周辺は、俄かにキナ臭くなる。
ミリタリーバランスの崩れは、当事者同士とは限らない、周辺バランスも大きく作用する。
1560年に和睦して以来、穏やかだった名和氏と相良氏。
1560年に和睦して以来、穏やかだった名和氏と相良氏。
だが幼君誕生で名和氏が揺れているのを知ると、義陽の野心も燻り始める。
そこに起きたのが、三氏相互支援の話で、翌年に北原叔父の画策で裏切りの誘いの声がかかる。
そこに起きたのが、三氏相互支援の話で、翌年に北原叔父の画策で裏切りの誘いの声がかかる。
名和氏のことが無ければ、踏みとどまったかもしれない・・・
だが名和氏から領地を奪うチャンスが見えて来た事が、日向へ深入りする情熱を失わせる。
だが名和氏から領地を奪うチャンスが見えて来た事が、日向へ深入りする情熱を失わせる。
義陽は神前で誓った起請文を反故にすることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio