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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【起請文】相良義陽---23

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さて宮崎県えびの市南部の白鳥山北中腹に白鳥神社がある。

祭神が日本武尊~~つまり軍神、だもんで後年の島津家が熱心に保護してました。
ちなみに神社のある地域は白鳥の禁漁区^^)

1562年6月21日、白鳥神社に相良家・北郷家・島津家が集い、
北原兼親の前で相互助成の起請文を交わした。

島津方代表:伊集院忠倉、北郷方代表:北郷忠徳、相良方代表:深水頼金

弁護士も司法書士も行政書士もいない時代、人々は神前で契約を交わす。

契約不履行すると現代では損害賠償などのペナルティが生じるが、戦国時代のペナルティは戦だ。


だから力が均衡してる同士や、共通の敵がいる時の起請文は比較的守られる。

やばいのは、ミリタリーバランスが崩れた時・・・

相手より自分が有利・・・となるや起請文は紙屑になりかねない。


思い通りになったと思った北原家が、息を吹き返した事に驚いたのが伊東義祐だ。

だが相良・島津・北郷の三氏を相手に渡りあうのは流石にキツすぎる (* ̄* ̄*)むぐぅ~

ところが伊東にとって「救いの手」、北原にとっての「獅子身中の虫」が現れる。

1563年~北原兼親の叔父・北原左衛門尉が伊東義祐に内通した ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

北原左衛門尉(兼親叔父)は伊東と相良を盟約させて、

真幸院・飯野から島津を追い出そうと画策した。



通説では単なる裏切り者扱いの北原左衛門尉・・・だが、そんなに単純なものだろうか?

三氏相互支援・・・字面だけはカッコいいが、

そのままでは北原は三氏からの干渉を受け続け、身動き出来なくなる。

そして島津の表看板は「三州(薩摩・大隅・日向)統一」

島津「べ、べつに諦めた訳じゃないから!

ちと内輪もめして、ちと国人が手ごわくて・ちと分家が言う事聞かないだけだもん(半泣)」

飫肥城が粘り続けているように、一度島津を真幸院に入れたら「北原支援」を口実に、

そこから動かなくなるだろう。

島津と伊東のガチ激突になれば、相互支援の恩義で北原は島津の先陣を務めざるを得なくなる。
ついには独立した勢力ではなく、島津に隷属する羽目に陥るかもしれない。

「島津からの助力は真幸院復帰まで、あとはいらない。」と、考えても不自然ではないと思う。

ウィキペディアの簡素な説明では、画策する北原叔父へのメリットが記載されて無い。

あるいは甥の北原兼親に替わって、自分が当主になる野心があったのかもです。

北原左衛門尉は真幸院関連の記録では吉松城主とあるが、

吉松城は現代では鹿児島県湧水町吉松。

ちなみに島津歳久が落とした横川城が、同じく鹿児島県霧島市。

横川城は北原の一族が城主でしたが、伊東派だったため島津の調略を拒んで攻撃されて落城し

、城主親子が自害しました。

てことで、戦国時代の「公称:真幸院=北原エリア」は、「えびの市だけ」を指すわけでなく

鹿児島県側にも食い込んでたんです。

北原左衛門尉(再興当主・兼親の叔父)にすれば、自分の領地が島津に侵食される危機感もあ

ったと思います。

人物・相良義陽 相良義陽イメージ画像

一方、相良義陽は日向への領土的野心は薄かったようだ。

父祖が残した大口城(島津の大隅地方にある城)を三交代制で守備して堅持している所を見る
と、

領地拡大なら大隅の方に・・・と考えていたかも?です。

1562年・・・三氏相互支援の前の3月13日・
名和行興が死亡、僅か7歳の子供が家督を継ぐ
幼君誕生で名和氏周辺は、俄かにキナ臭くなる。

ミリタリーバランスの崩れは、当事者同士とは限らない、周辺バランスも大きく作用する。


1560年に和睦して以来、穏やかだった名和氏と相良氏。

だが幼君誕生で名和氏が揺れているのを知ると、義陽の野心も燻り始める。

そこに起きたのが、三氏相互支援の話で、翌年に北原叔父の画策で裏切りの誘いの声がかかる。

名和氏のことが無ければ、踏みとどまったかもしれない・・・

だが名和氏から領地を奪うチャンスが見えて来た事が、日向へ深入りする情熱を失わせる。

義陽は神前で誓った起請文を反故にすることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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