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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【 新恩 】大河平(おこびら)氏---3

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相良史と、えびの(真幸院)史をリンクin~マニアック進行で行くよ~~(^ -)---☆Wink
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北原氏から大河平の地を拝領し、八代姓から大河平姓に改めた大河平隆屋。
北原の家督が伊東義祐に乗っ取られ、家中が激しく揺れる中、彼は島津義弘に拝謁し「領地安堵」を受ける。

これは隆屋が上手いことやった・・・・・という訳でなく、
反伊東派で伊東義祐兵の粛清から逃れた北原家臣の多くは、伊東氏の敵である島津氏を頼ったらしい。

だが「北原家臣に島津氏が安堵する」のは、元々は「北原氏が家臣に分知した領地」だ。
御家再興と言う美酒と引き換えに、北原氏は名目だけの領主となったとも言える。

1562年2月13日、大河平氏家祖・大河平越前守隆屋、卒去(法名「源宅宗潤居士」)。享年73
隆屋に先立ち息子の隆充(大河平氏初代)が亡くなってるので(1559年・53歳没)、家督は嫡孫である隆利が継ぎ2代目当主となった。

系図・大河平氏

同年、大河平城を伊東義祐の叔父・伊東杢右衛門が兵450をもって攻撃。

これが、相良が五城抜き(5月10日)して、北原兼親(御家再興当主)が飯野城に入った・・・
前なのか後なのかが判らない~~~~ンガァァ!

隆屋が島津に従ったのが彼の死がキッカケで伊東にバレたのか、単に戦略的拠点として欲しかったのか、
どっちも有り得るんで何とも言えない^^;

ちなみに嫡孫・・・と言っても隆利は27歳~総領として不足はなし(`・ω・´)キリッ
伊東勢の攻撃を防ぎきり見事、城を守り通した~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

戦の経過ですが、まず伊東義祐は大河平氏を調略しようと叔父の伊東杢右衛門を遣わしたみたい。
しかし大河平隆利(隆屋嫡孫)は、伊東の誘いを拒否。
そこで杢右衛門は、その夜に風雨に紛れて子(ね)の刻(23時~0時59分)より将兵450人を率いて大河平城を急襲した。

大河平城は要害という訳では無く、外構えを破却されるも隆利は城を守り通し、やがて東の空が白む頃には風雨も止んだ。
隆利は意を決し、門を開いて打って出て伊東方を 攻撃!o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
辰(たつ)の刻(7時~8時59分)にはこれを壊滅させ、50名を討ち取って伊東杢右衛門&その従者数名を逃散させるに至った。(=^・ω・^=)v ブイ
ちなみに大河平側の戦死者は十余人。(-人-)☆彡・・・黙

家紋・伊東
(リフォーム会社のロゴマークみたいな伊東家紋)

島津義弘は、この隆利の働きに鍋・灰塚・榎田の地、計2,000石を与えた。
亡き隆屋が受けたのは本貫地の領地安堵。
継いだ隆利が軍功により得たのが2000石。

これにより大河平氏は、北原家臣でありながら同時に島津氏より「新恩」を受ける。
彼氏彼女の二股はNGだが、国衆のダブルスタンダードは平常運転なのが戦国時代。
主君より実力のある上位者から安堵を受けるのは、ままあることだ。

ましてや主君(北原氏)と上位者(島津氏)の「共通の敵が伊東義祐」と、利害は一致していたのだ。
幸先良いと思われた勝利の裏で、相良氏が盟約を裏切り伊東に与するとは、
大河平氏が知る由もないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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