論文再開すると、年表大改訂がペースダウン~まぁ焦らず行きます^^
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北原氏から大河平の地を拝領し、八代姓から大河平姓に改めた大河平隆屋。
北原の家督が伊東義祐に乗っ取られ、家中が激しく揺れる中、彼は島津義弘に拝謁し「領地安堵」を受ける。
おそらくは一族の精神的支柱であったであろう隆屋。
それが1562年2月13日、大河平越前守隆屋、卒去(法名「源宅宗潤居士」)。享年73
隆屋に先立ち嫡男の隆充が亡くなってるので(1559年・53歳没)、家督は嫡孫である隆利(大河平氏2代目)が継いだ。
同年(月日不明)、大河平城を、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が兵450をもって攻撃。
戦の経緯は前回紹介済なんで割愛。
隆利は伊東勢の攻撃を防ぎきり見事、城を守り通した~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
島津義弘は、この隆利の働きに鍋・灰塚・榎田の地、計2,000石を与えた。
と、いう所までが前回までの話。
鍋は判らなかったけど、灰塚と榎田は現代でも地名が残ってます。
で・・・・これが、やっぱり元々は北原エリアなんです。
何で島津義弘が北原領と大河平氏に安堵しちゃうわけ?って思わず突っ込みたくなる^^;
北郷・島津・相良の三氏による支援で御家再興した北原氏だったが、
「領地安堵」という主君の特権事項を失っては、もはや名ばかり当主としか・・・(-ω-;)ウーン
このあたり、御家再興した(してもらった)北原兼親の権限が、何処まで三氏(島津・相良・北郷)から委ねられてたのか判然としていない。
でもって三氏・・・とは言っても現実の主導権は、伊東とガッツリ交戦状態の島津にあった・・・ということなのだろう。
で、この鍋・灰塚・榎木(合計2000石)は、肥後球磨郡よりの土地でして、相良勢が落とした馬関田城に近い・・・
(つまり「えびのIC」に近い)
大河平館からだと西に5kmも離れてる土地なんです ヽ(。_゜)ノ へっ?
当然、大河平館から新たな領地を見通すことは不可能で、いわゆる「飛び地」で維持管理が・・・^^:
始め、真幸院の東と西の国境を大河平氏に託したのかと深読みしたら、
監修様「あの・・・それじゃ大河平氏には負担過重・・・」
シオ「あ・・・すいません~また推考が爆走しました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!」
てことで、ほんとに恩賞としての土地だったみたいです^^;
その後、島津義弘は「伊東に備えて要害に城を築くように」と隆利に指示した。
そこで、隆利は大河平城の西方に今城を築き、自家の手勢と島津からの派兵300人と共に入る。
が、
永禄6年(1563年)1月28日、大河平仲太左衛門隆利も、28歳という若さで病没!ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
てことで、上に出した系図に注目~~~~~~~~~~
不幸なことに隆利には子供がおらず、次弟・隆豊も既に戦死。残る男子は末っ子・隆次。
1563年1月、末弟・大河平九郎隆次、
兄の死により大河平氏当主3代目となる。
この時、若干14歳!
若年が城主で大丈夫?
大丈夫(=^・ω・^=)v ブイ
隆次クンにはベテランの叔父上たちと、伊東兵を自力で撃退した実績のある大河平勢がついてます(`・ω・´)キリッ
名誉ある最前線の城主として、臆することなく励んだと思いますよ♪(*´ー`)ウフフ
この間に相良氏が島津を裏切り、1563年5月14日、伊東・相良勢が大明司塁を落とします。
大明司塁は、えびの市大明司にあった山城というより砦に近い小城です。
ヤバいのは大明司塁の規模ではなく、その位置。
飯野城から2kmくらいしか離れてません。
伊東義祐は着々と魔の手?を伸ばしてきてました。
ところがです。
大河平氏の主君・北原兼親と若年城将・大河平隆次(14歳)が不仲になるんですヽ(。_゜)ノ へっ?
北原兼親は生没年不詳なので、隆次クンとの年齢差も不明です。
ただ流石に隆次より年下ってことはない・・・と思うけど・・・(-ω-;)ウーン
不仲の原因も不明でして、書くほどの事でないくらい些細だったのかもです。
が、ここから先が些細でなくなる。
主の北原兼親は島津義弘へ
「飯野城(北原兼親在城)と今城(大河平隆次が城主)は余り遠くないため、
(伊東が攻撃してきても)すぐさま今城を救援できます。」
「ですから今城配備の島津兵は撤収しても大丈夫です」
と進言したため主従二人の不仲を知らない島津義弘は「なるほど。それもそうか」と今城への派遣兵を撤収してしまう。
1564年5月29日、島津勢が引き上げた事を知った伊東義祐による、今城攻撃が始まる・・・・それは・またの話 by^-^sio