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天文2年生まれ。兼演嫡子。袈裟寿丸、三郎五郎
母は廻兵部少輔の女。貴久公御家老。貴久公の御妹聟なり。
天文23年、蒲生・渋谷らまた叛くに於いて、兼盛、異心なしの旨の誓紙を進上仕り候。
8月、祁答院・入来院・蒲生・渋谷らの凶徒、加治木を攻む。北原もまた渋谷に加勢致し候。
同29日、兼盛、網掛川に於いて合戦致し、凶徒4人を討ち取り、清水・宮内・姫木・長浜の後詰来りて、
9月10日、また合戦。大隅衆また後詰として着船候。
同13日、貴久公御父子、後詰の為に平松へ御着陣。凶徒ら驚きて加治木を引き退き候。
弘治元年3月8日、兼盛、溝辺・加治木・日当山・長浜の衆を召し連れ、帖佐の山田へ押入り、伏兵を以って凶徒23人を討ち取る。加治木の 卒将・徳永与一左衛門、安田杢之丞、歩卒2人の他、溝辺・長浜の歩卒ら戦死。
同4月2日の夜、凶徒、利を失い、帖佐新城ならびに山田城を捨て祁答院に退く。これらの賞として、貴久公より西別府・有川を下され候。
永禄4年5月、肝付省釣、廻城を攻め取り、義久公御発向し、兼盛罷り立って手負い。
同6年、飯野御危急のとき、籠城致した軍労に付き、義久公より御書発給さる。
同9年、三山城攻めの御供をし軍労。
同10年、菱刈御退治軍功。
同11年、忠平公、馬越城より大口を御攻めのとき、力戦仕り候。
同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、新納忠元同心にて、小苗代薬師へ参詣致す処、大口城より敵打ち出て忠元難儀に及び{後述}後殿なり。
同12年、忠元・兼盛ら大口城を取り囲み、敵遂に利を失い降参致し求摩へ退散。その為、義久公より御感状ならび曽於郡のうち上三台堂を下され候。
元亀2年、肝付・伊地知・禰寝の御退治に兼盛、罷り立ち候。
天正4年、高原城攻めにも御供仕り候。
同5年、日州御発向に御供仕り軍労。
同6年8月11日卒す。享年46。殉死・二宮肥後守の他は、切り指すると云う。
出典:本藩人物志(島津関連の編纂史料)
第七大改訂年表にデータ収蔵完了(`・ω・´)キリッ
といってもホントに納めただけの生データ状態。
歴史記事に出来るレベルにまで調べこむには未だ未だです^^;
とりあえず、どこまで整理したか判らなくなるので、自分の記録用UPですのでスルー可^^;