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さて、今城は川の右岸の岩石の切り立ったガケの上にあり、南と西は渓谷、東は川が堀となり、その上はガケと急斜面でした。
北側は狭い道路が永野原に連なっているが、ここに三箇所の城壕を設え敵の侵入を阻んだ。
更に川の岸に大手門を設え、これを偽装して城壁には松の大木をはじめ岩石を積み上げ、敵の攻撃に備えた。
城兵は大河平自前の130に加え、義弘派遣の300人。
主君である北原兼親がいる飯野城は、地形無視の直線距離で2kmほど東です^^
んで、兼親の言上により島津義弘は派遣兵を撤収してしまう。(_´Д`)アイーン
伊東義祐はこれを聞き及び、永禄7年(1564年)5月29日暁に1,000騎余で今城へ押し寄せる。
伊東勢はまず三方深淵に囲まれた要害に陣を布き、”大河平城”へ物見を出したが城には一兵も無かった。
既に大河平側では老幼婦 女子は山神平の岩山の中に隔して、今城を固めていたからです。
おそらく伊東義祐は当主が代替わりしたばかりで、しかも未だ15歳と知って舐めてたんじゃないでしょうか。
まず使僧を遣わし降伏を促した。
伊東義祐
「良禽は木を選び智者は明者を求む。
今、汝は土地の大小勢の強弱を案して、速やかに我に服せば数城を連ねて武名を輝かし永く栄華を子孫に遺さん、
若し命に違わば孤城を細粉せん事眼前にあり、汝それを熟慮せよ。(* ̄ー ̄*)ニヤリ
黒い伊東義祐イメージ画像(髷を結ってないのは、既に頭を剃って入道してたから^^)
が、大河平隆次はこれを拒絶する。
「賊め、無情にも敢えて人の国境を犯す、
我ら豈(あに)利を負って不徳の人に従わんや。汝速やかに去れ。
我が家は代々忠義を執りて国門の鎖鍮(さやく)たり、
事己に今日に至る唯弓箭の間に相見えんのみ、
焉んぞ(いずくんぞ)降慮となって恥を軍門に曝さんや(橋口嵐山氏の『諸県興亡』バージョン)」
|返答|・ ̄)じぃー ・・・・・・
隆次の返答の意味が判らず・・・(._+ )☆\(-.-メ) オイオイ
もとい
少年当主の拒絶に対し、伊東義祐は再び使者を送った。
隆次クン(超意訳バージョン)
「賊め! 無情にも敢えて人の国境を侵すような“利を追う不徳の人”に、どうして我らが従わねばならぬのであろう。
汝(伊東義祐)速やかに去れ!
当家代々の忠義を執るは国門の鎖鍮(さやく)の如し!
このようになった上は唯々弓矢にて御相手するのみ。
どうして降伏などして恥を軍門に晒せるだろうか!(`・ω・´)キリッ」
あくまでも個人的な感想なんだけど、この堂々たる拒絶の口上は誰かの仕込みじゃなくて、隆次自身の言葉だと思う。
末っ子とはいえ現代の15歳より、戦国時代で武士である隆次の方が遥かにシッカリしてるだろう。
その上に隆次は、詳細不明とはいえ15歳ながら「ささいな事」で主君と不仲になったという経歴の持ち主だ^^;
おそらく口も達者で、自分の意志や意見をハッキリ・キッチリ・ガッツリと言っちゃう子だったんじゃないかしらん^^;
ちなみに鎖鍮(さやく)は港湾を封鎖する鎖を意味する言葉で、
意とするところは「国境は死守する!大河平方面より先へは行かさない!」って事だろう。
初めて見た時に「何で港湾用語ヽ(。_゜)ノ へっ??」と実は思った^^;
地図の通り、大河平の地は谷あり山あり渓谷ありで、てか真幸院そのものが山に囲まれた盆地で、港湾って雰囲気ゼロ^^;
そこで思い出すのは、大河平氏は本来は肥後菊池氏庶流で、八代が故地だったという事です。
熊本県八代市は思いっきり港町。
このあたりも干拓で海岸線が変化しているらしいが、大河平氏の故地も海に近かったのだろう。
八代から大河平の地に移住したのが、家祖で隆次の祖父・隆屋の代。
お爺さまが亡くなった時だと、隆次クンは数えで13歳(前髪が眩しい男の子♪)
祖父や父・叔父たちから、先祖の地・八代の様子や、大河平氏の由来など武家の子弟として当然ながら教えられます。
国門の鎖鍮・・・
この言葉は、若くして当主となった隆次にとって、大河平氏の由来と共に心得として胸に刻んだ言葉だったのではないでしょうか。
さて、思いっきり浸ってる管理人と違い、賊だの不徳の人だのと若僧に言われたい放題だった御本人・・・。
伊東義祐はブチ切れ、激怒して今城の総攻撃を開始したのだが、それは・またの話 by^-^sio