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これは折紙(おりがみ※鶴ではない)でした。
折紙は堅紙(けんし・A4サイズ横使い)を半分に折って使うことから呼ばれ、略式の文書です。
追而
※ついじ・追って=追伸ってことです
御判地之内、不足分弐拾〔文字欠落〕事者、於下筑後之内、可被成御分別之由候、
※御判地の内、不足分20〔文字欠落〕事は、下筑後の内に於いて、御分別成さる可(べ)きの由に候、
在所柄等之儀申談、取合之儀、弥不可有無沙汰候、〔文字欠落〕上右馬允可被達候、恐々謹言
※所柄(ところがら)等の儀を申し談在(あ)り、取合(とりあい)の儀、弥(いよいよ)無沙汰有る可(べ)から不(ず)候、
※〔文字欠落〕上 右馬允へ達せらる可(べ)く候、恐々謹言、
(天文5年)八月廿八日 (入田親廉)丹後守(花押)
(山下長就)和泉守(花押)
(田北親員)大和守(花押)
龍造寺民部太輔殿
(奥上書)
「 田北大和守
山下和泉守
入田丹後守
龍造寺民部太輔殿 (入田)親廉 」
※シオ読み下し内の( )はシオ補足、本文内の( )は佐賀県史料集成編纂者による補足
★★★語句とか解説★★★★★★語句とか解説★★★★★★語句とか解説★★★
所柄(ところがら)---現代風なら「土地の重要事項説明」(*´pq`)クスッ
取合(とりあい)---納税の事です^^/
登場人物は重複してるので割愛
★★★感想とかとか★★★★★★感想とかとか★★★★
なんか不足分について言ってきてるwww
書状だから年度の記載がないですが、日付が奉書の二日後(8月28日)だから、同じ天文5年と史料編纂の段階で判断したようです。
奉書でも追而を出すって書いてましたしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
で、足りなかった20町分は下筑後で御分別(ごふんべつ)・・・つまり我慢してね♪←っと言ってるwww
下筑後のどこかまでは記載ないけど、80町が福岡県うきは市内だから、飛び地確定^^;
てか、肥前の龍造寺から見たら、うきは市自体が飛び地なのに、さらに20町が飛び地になるんです^^;;
本貫地から離れた領地を何か所も、龍造寺氏で管理するのって大変よネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
てことは、大友家の筑後直参衆に代行してもらうしかない。
そこで、所柄(土地の詳しい説明)や取合(納税)について相談しなきゃならず、
このあたり「申し談」が龍造寺側から在(あ)った・・・て事なんだろう。
判物は7月9日で一か月以上間があるから、「(奉書が届く前に龍造寺から)問い合わせ来ちゃったよ~」って事があっても不思議ではない^^;
んで、無沙汰(ぶさた)がないように右馬允に連絡した~・・・って感じの意味だと思う。
奥上書は日付の次に差出者が署名・花押する文書様式で、上位者から下位者へ出すときの様式です。
まぁ、キング大友の老臣ですから基本として上から目線なのですが、
宛名である龍造寺胤久に対し敬称である「殿(しかも漢字)」を用いているので一定の敬意を払ってます^-^
末尾の「 」は書状を包んでた封に書いてのだと思いますが、ちょっと自信ない^^;
残り20町が何処に決定したのかまでは、文書が残ってないので判りません。
この筑後国内における龍造寺領の、その後も判らないな~筑後関連のデータ見るときに地名に留意します^^;
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実は、今回の一連の古文書は堀本一繁氏の「論文:龍造寺氏の戦国大名化と大友肥前支配の消長」で
「肥前国衆への軍事動員の事実と、その服属化を裏付けるもの」として典拠として挙げてる古文書なんです。
ちなみに論文では(論証に無関係だから)20町不足してた事には触れてません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
数か月前に論文を読んだときは「軍事動員の事実」が???だったんだけど、スパンを数年単位にすれば動きがあったっぽい。
天文年間前半の大内VS大友は、北九州全体で軍事活動は凄い活発だったんで、その全体で俯瞰すると「軍事動員の事実」が含まれる・・・と見ても良いかな?
最近、入手した論文で(書いたのは違う人)それらしい事を書いてるんで、いま手持ち年表データと比較検証中です( ̄ω ̄A;アセアセ
自分が古文書の勉強や読み下しを始めて約3カ月^^;
その分だけ己の過去の未熟さに気づくわけで・・・(滝汗)
・・・ま、仕方ないですよね・・・自分、ガン( ゜д゜)ガレ