鉄砲を使ったのは神代勝利近習の山伏で、薩摩出身の伊集院阿含坊。身の丈七尺。
郷土史によると薩摩・伊集院の弟とあるんだが、どの伊集院ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
郷土史によると薩摩・伊集院の弟とあるんだが、どの伊集院ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
この阿含坊1人が撃った鉄砲が絶大な効果を発揮しました。
まず本人が鉄砲の名手だったので、部隊指揮官である兜首クラスをHITした。
そして地形です。名尾峠は周囲に崖が聳え立ってます。
鉄砲の音が周囲の崖に反響して音撃破に・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
まず本人が鉄砲の名手だったので、部隊指揮官である兜首クラスをHITした。
そして地形です。名尾峠は周囲に崖が聳え立ってます。
鉄砲の音が周囲の崖に反響して音撃破に・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
冗談はさておき、もっと肝心なのは「肥前における初めて鉄砲が使われた戦」だって事です。
峠に鳴り響く鉄砲の音を初めて聞いた者が、おそらく雑兵の大半を占めてたはずです。
佐嘉勢はパニックを起こし、収拾がつかなくなりました。
峠に鳴り響く鉄砲の音を初めて聞いた者が、おそらく雑兵の大半を占めてたはずです。
佐嘉勢はパニックを起こし、収拾がつかなくなりました。
それでも何とか必死でよじ登ると、待ち構えてた神代勢によって追い落とされる。
峠南側の谷底は佐嘉勢の死体が累々と重なって埋まり、谷川は佐嘉勢の血で染まる。
雑兵の戦死者は数えきれなかったそうです。
峠南側の谷底は佐嘉勢の死体が累々と重なって埋まり、谷川は佐嘉勢の血で染まる。
雑兵の戦死者は数えきれなかったそうです。
仕官クラスの犠牲者は、石井兼清、中元寺新左衛門、副島左馬允、水町右馬助、江副新八郎、土橋孫七郎、大塚七左衛門、久保九郎兵衛、大石四郎兵衛。
このとき、河上の鳥居の前に山内勢の何者かに依る、嘲笑の狂歌が立てられる。 『春日山 若武者先に落とされて 又清恥を かくぞ鉄布(かなしき)』河上の鳥居・・・肥前国一の宮・與止比女神社のことでしょう。
北肥戦誌には「信安らが討たれたと聞き激怒」と簡単に書いてますが、おそらく石井兼清が戦死した事も怒りMAXになった要因だと思います( ̄ω ̄A;アセアセ
小河信安が「隆信に靡かない18代目未亡人との和合を取り持った恩人」なら、
石井兼清は「隆信が還俗した時の儀式受け入れ準備一切を取り仕切り細やかに世話してくれた恩人」です。
僧侶出身で子飼いの家臣が未だ育ってない隆信にとって、二人の存在は貴重でした。
石井兼清は「隆信が還俗した時の儀式受け入れ準備一切を取り仕切り細やかに世話してくれた恩人」です。
僧侶出身で子飼いの家臣が未だ育ってない隆信にとって、二人の存在は貴重でした。
更に北肥戦誌では激怒した隆信が「山内へ打ち入らんと発するが」止められたとあるんですが、
実は隆信は既に神代エリア内にかなり深入りしてました。
実は隆信は既に神代エリア内にかなり深入りしてました。
隆信は三反田の南広坂(大和町松瀬)まで陣を進めてて、そこで大敗北の報告を聞いたんです。
三反田・南広坂は神代勝利が決戦前に布陣した場所近くらしく、そこまで隆信が陣を進めていた理由・・・
三反田・南広坂は神代勝利が決戦前に布陣した場所近くらしく、そこまで隆信が陣を進めていた理由・・・
1)神代が名尾峠に移動してた情報が遅れて、隆信が知らなかった。
2)神代が戻るところを待ち伏せするつもりだった。
2)神代が戻るところを待ち伏せするつもりだった。
といったところでしょうか。三反田から烏帽子岳との距離は1kmくらい。
そのまま8kmほど北上すると三瀬峠に入ります。
そのまま8kmほど北上すると三瀬峠に入ります。
まさに背振山系への入り口寸前。ここまで敵地に入り込む大将ってどうなの?( ̄ω ̄A;アセアセ
これ以上先はリアル山越え覚悟の行軍になり、山岳民族である山内豪族たちのブービートラップが幾つあるか見当も尽きません。
そもそも旧暦の10月なんで、平地の服装感覚での山越えはガチで不味い。
これ以上先はリアル山越え覚悟の行軍になり、山岳民族である山内豪族たちのブービートラップが幾つあるか見当も尽きません。
そもそも旧暦の10月なんで、平地の服装感覚での山越えはガチで不味い。
隆信に対し納富左馬助が「更に奥へ進むですと!(゚ロ゚屮)屮 ナンダッテ~~」
「土地不案内すぎ!ダメダメダメ~~~~!!!」と必死に止めたので、隆信も漸く諦めました。
「土地不案内すぎ!ダメダメダメ~~~~!!!」と必死に止めたので、隆信も漸く諦めました。
北肥戦誌にも三瀬村誌にも、龍造寺・佐嘉勢の兵数が記されてないので、佐嘉勢の戦死者数を把握することは出来ません。
が、龍造寺が負けた事は歴史的事実です
が、龍造寺が負けた事は歴史的事実です
傍証1・先陣大将・小河信安と嫡男が討死し、先陣が壊滅
傍証2・三瀬村誌に記された、地形に基づく佐嘉勢の被害の客観的状況
傍証3・三瀬村誌&北肥戦誌、双方の仕官クラス戦死者氏名の記述にブレがない(現地に慰霊の石碑有り)
傍証2・三瀬村誌に記された、地形に基づく佐嘉勢の被害の客観的状況
傍証3・三瀬村誌&北肥戦誌、双方の仕官クラス戦死者氏名の記述にブレがない(現地に慰霊の石碑有り)
トドメの傍証・・・引き上げる隆信の帰還コース
三瀬村誌によると、隆信は引き上げる際に藪の中へ旗を立て「未だいるぞ」工作し、大和町大字川上近くの惣座で西に転身し小城道から佐嘉へ帰るという遠回りしてるんです。
三瀬村誌によると、隆信は引き上げる際に藪の中へ旗を立て「未だいるぞ」工作し、大和町大字川上近くの惣座で西に転身し小城道から佐嘉へ帰るという遠回りしてるんです。
嗚呼・・・この行動は紛れもなく敗軍の将・・・肥前の熊・龍造寺隆信、大敗北認定です
自分は神代勝利勢(1700、息子の兵入れると3000)より、龍造寺側の兵力が多いはずだ。と書きました。
というのも神代勝利は名尾峠で勝利すると、佐嘉勢を追撃することなく三瀬へ引き上げてるからです。
敗北はしたものの、龍造寺勢の兵力に余力があったからじゃないでしょうか。
というのも神代勝利は名尾峠で勝利すると、佐嘉勢を追撃することなく三瀬へ引き上げてるからです。
敗北はしたものの、龍造寺勢の兵力に余力があったからじゃないでしょうか。
一騎打ち十六夜記事に記したように、三瀬へ戻った神代は小河を首級を丁重に弔ったそうです。
小河家は嫡男・豊前守も討死にして後継がなくなったので、主君・龍造寺隆信は鍋島清房の三男を信安の娘に娶せて跡を継がせました。
小河家は嫡男・豊前守も討死にして後継がなくなったので、主君・龍造寺隆信は鍋島清房の三男を信安の娘に娶せて跡を継がせました。
この決戦前までは亡き小河の案内を務めた梅野弾正のように、山内の豪族でも龍造寺に靡く者もいました。
が今回の大敗北で神代勝利が完全に山内を掌握し、龍造寺が食い込む余地が皆無となってしまった。
さらに神代は要害堅固な熊ノ川城も造り、筑前方面へと勢力を広げんとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
が今回の大敗北で神代勝利が完全に山内を掌握し、龍造寺が食い込む余地が皆無となってしまった。
さらに神代は要害堅固な熊ノ川城も造り、筑前方面へと勢力を広げんとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio