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緑文字---原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳または補足
書音、
※しょいん
★みたまんまです~意味としては、消息or手紙
殊太刀一腰金覆輪 織物一端 茶碗済々給候、喜悦候、
※殊(こと)さら太刀一腰(金覆輪)織物一反(赤地)茶碗済々(さいさい)給わり候 喜悦(きえつ)候
★とくに、太刀一本(金覆輪)織物(赤地)茶碗 とかとかたくさん貰っちゃって 超嬉しい!
【金覆輪】---きん ぷくりん~刀や鞍(くら)などの縁飾りの覆輪に,金または金色の金属を用いたもの
自是一振、表賀礼候之趣、猶入田丹後守可申候、恐々謹言
※是(これ)自(よ)り一振、表賀礼候の趣、なお入田丹後守へ申し可(べ)く候、恐々謹言
★この中の(太刀を)一本、表賀礼にいいかな~って、んと、入田丹後守に話しておくから!恐々謹言なぅ~
【表賀】---ひょうが、臣下から天子に文書を奉って祝いを申し上げること
七月廿六日 (大友)義鑑(花押)
龍造寺民部大輔 殿
※龍造寺胤久宛です
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戦国お中元です(`・ω・´)キリッ
現在は新暦でしが、旧暦は7月15日に中元プレゼンツ~
この書状は、龍造寺から大友への中元に対する礼状。
・・・と思う、、、他の目的で進物したとしても時期的に御中元に絡めるんじゃなかろーか( ̄ω ̄A;アセアセ
くどいようですが、書状は今で言うなら普通の手紙なので日付は書くけど年号は記載しないのね。
だから正確な年代は不明です。
でも1536年7月9日以降~1549年(1550年2月12日が義鑑没年月日)の間・・・と思う。
龍造寺家文書_107_大友義鑑判物で龍造寺胤久が1536年7月9日に領地安堵を受けているので、
流れとしては御礼と中元を兼ねて進物を贈ったんじゃないかな~~という推測。
没年月日だけは鉄板だから、1550年以降ってことはないけど。
まぁ、お中元した年号に関しては、他史料との比較が必要ですので、まだ断定できないですね^^