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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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相良義陽_28【甲斐氏と会うかい?_前編】

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今日は、お楽しみの大河です~~色々考えずに思いっきりドラマで泣けますように(-人-)☆彡
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≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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持病の腰痛&左膝痛がイマイチで、間が空いちゃってすいません~m(__)m

さて、名和氏の概略を駆け足で記事にしたところで、いつも通りの年代順に話を戻します____φ(.. ) メモメモ
(年表フェチなんで、編年体風が好き♪)

1563年5月14日(日向記だと4月14日)に相良が島津との盟約を裏切り、伊東へ寝返る
同年、5月5日、6月6日の都合二回、島津から相良へ使僧派遣し、相良の引き留め工作(←と思われる)
(※島津は相良へ飯野地方を相良に割譲しようとしてました)
月日不明、相良から派遣した使者・東出羽守が勝手な発言して島津を激怒させ外交関係が完全破綻する
(※東出羽守の発言内容は記載がないので不明)

1564年2月9日、相良の追手がトンずらしてた東出羽守を成敗
が・・・既に手遅れ。島津の怒りは収まらず、
同年2月11日、島津軍による大口城攻撃が始まる
同年2月21日~大口城番の赤池長任(あかいけ ながとう)が、島津に敗退する
(落城ではなく局地戦)

相良家臣・赤池長任~年齢不明&没年不詳。
大口城は城主常在ではなく、城番が半年ごとの交代制で入ってて、この時は赤池が当番でした。

(島津との関係が悪化してるので)用心堅固に守るように」と命令を受けていたのだが、
赤池は血の気が多いのか、武功を立てたかったのか、島津に野戦を仕掛けることを思いついた。(・∀・)ピコーン★

騎馬武者65騎+雑兵で合わせて兵300で出陣。

筈ヶ尾を放火し挑発、出てきた島津軍と交戦したけど、破れて大口城へ退却したんです( ̄ω ̄A;アセアセ
殿(しんがり)となった長任本人も手傷を負い、先陣だった桑幡、岩崎など沢山の兵が討ち死した。( ̄ω ̄A;アセアセ

赤池「今は気まずいけど、史実では数年後にリベンジするから平気 (=^・ω・^=)v ブイ」

そして同年の5月30日に日向・今城が伊東軍の攻撃で落城します(城主・大河平隆次以下130人玉砕)
(大河平側の記録では5月29日)
伊東軍から圧迫が強まったので、島津義弘が同年11月7日に真幸院・飯野城入りします。
(領主だった北原兼親は、伊集院神殿村へ左遷)

で、この間の4月8日に、名和氏の幼君(4代目当主)が僅か9歳で死亡
5月8日に急死した幼君の叔父にあたる名和行直が、政治対立してた名和氏家老を追放し名和氏5代目となる。

相良義陽が行動を起こしたのは、8月21日のことでした。

人物・相良義陽 橘朝臣幸麿さま作画・相良義陽イメージ画像

阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運が隈庄城攻撃した時に、相良が加勢してます。
将(阿蘇氏)を得る(味方にする)には、馬(筆頭家老・甲斐氏)からでつよ・・・( ̄ko ̄)

隈庄城の城主は甲斐守昌で、甲斐宗運とは同族かつ宗運の娘婿だったと言われてます。
隈庄城が阿蘇氏に反旗を翻したってことで、阿蘇氏に苛烈な忠義を捧げる宗運が攻撃したわけです^^;

甲斐宗運の忠義は、少弐の馬場頼周とドッコイなくらい熱く激しくでして、
同族だろうが縁戚だろうが、主家の為なら容赦なしです。
隈庄城側は名和氏の援軍を受けて抵抗を続けたため、攻城は翌年の1565年まで長引いてます。

一方、相良義陽は甲斐氏と軍事提携をしつつ、本来の目的である名和氏攻撃の為に行動開始。
1564年10月4日、義陽は名和氏から豊福城を奪還するため、八代衆を動員する。

相良義陽の命運を決めた『甲斐宗運との出会い』が近づいているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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