北海道の大雨による影響が報道されてますが、シオ地方は雑誌の入荷が遅れる程度の影響ですんでます。
御心配頂きありがとうございました。
また、持病の腰痛&左膝痛がイマイチで、訪問や更新の間が空いちゃってすいません~m(__)m
無理しないようにボチボチ行きます__φ(.. ) メモメモ
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はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
上記以外⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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相良氏の長年のライバルだった名和氏。
なんですが、実は自分自身は本腰入れて調べたことがないので、名和氏の概略については武家家伝_名和氏やウィキペディアなど参照してます。
あちこち端折る&WEBサイト参照の為、【名和氏概略については、史料参照・色文字の記事ルール適応外】とします。
1564年4月8日~宇土名和家4代目当主が、9歳で死亡する
もともと名和氏は伯耆国の国人でして、中国地方戦国史に詳しい人には、そっちで知られている。
南北朝の時に活躍(実は南朝)して、恩賞として肥後・八代に領地を貰って、伯耆から八代へ引っ越し(((((((っ´▽`)っヒャッハー
で肥後に下向した名和氏は「八代(古麓)城時代」と「宇土城時代」に分かれます。
八代城時代~~城郭群の研究が最近始まったばかりなんで詳細不明&自分の脳みそが追い付かないにつき、、、、
素っ飛ばします~~~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
とにかく菊池系宇土家が滅ぶと、娘婿が空き城になった宇土城に入った。
その娘婿が宇土名和家の初代です(=^・ω・^=)v ブイ
八代が元々のフィールドワークだったから、同じく八代を領する相良家と激突する。
特に豊福城の領有権を巡って、約90年都合9回、獲ったり獲られたりを繰り返したので、
正直に言うと、豊福城が「どの時期」に、相良と名和の「どっちの支配下」か、調べるのは容易なことではない(涙
おまけに「和睦⇒破綻して戦」を何度も繰り返している・・・カンベンシテクダサイ il||li _| ̄|○ il||l
16代相良義滋の頃、名和との和睦の証として名和家の姫様が義陽の父晴広と政略結婚するのだが、同盟破たんで離縁しています。
義陽の代になって1556年に相良家・名和家・阿蘇家の3氏で盟約を交わしています。
で、その頃の豊福城は相良家の支配下でして、義陽の叔父が城主として入ってた。
が、その叔父が謀反して出奔して帰参して、その間に相良家では内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」があったりで、
そんなこんなでバタバタしてるうちに、豊福城は再び名和家に獲られちゃったみたい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(たぶん叔父の謀反直後あたりで、名和との盟約は破綻してるけど、阿蘇の方との盟約は継続していたかは不明)
1560年9月頃~?回目の正直で名和家と相良家が和睦する
名和との関係は、この時期が一番平穏だったみたいで、名和がらみの戦の記述が無いです。
(ブロ友様に作ってもらった戦国城配置画像^^/)
(宇土城と豊福城は地図の左側下より~)
1562年3月13日~宇土名和家3代目当主が死去、7歳の男子が家督を継ぐ
さぁ~ここから不穏になります~~~~~~ヾ(  ̄o)ゞオホホホホホ
亡き名和3代目の弟(つまり幼君4代目の叔父)名和行直が名代となるんですが、
名和家・家老も「亡き殿から後見役にと、自分も云われた」と主張し(真偽不明)対立しちゃうんです。
で、冒頭に戻る^^
家督を継いで僅か2年~1564年4月8日~宇土名和家4代目当主が9歳で死亡
ん~~~~~~~~まさか暗殺ではないと思うが・・・昔は子供の死亡率高いし^^;
同年5月8日~名和行直は対立してた家老を攻撃し宇土城から追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
そして自分が宇土城へ入って、宇土名和家5代目当主となる、
家督乗っ取りでつ・・・( ̄ko ̄)
追い出された家老は堅志田城へ逃げた~~簡単に言うと阿蘇氏の保護下に入ったんです^-^
この名和家の内輪もめを、長年のライバルだった相良氏が指を咥えて観てる法は無い。
いくら肥沃でも日向・真幸院では、伊東と島津が凌ぎを削ってて、相良だけの思うようにはならない。
同じ肥沃なら内輪もめで揺れてる名和氏の宇土平野の方が狙い目なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
だがここで一つ問題がある。
名和家から追い出された家老が、阿蘇氏の保護下に入ってるって事です。
肥後阿蘇氏・・・肥後国一宮の大宮司職。
ロン様作成・阿蘇氏家紋ロゴ
血統も阿蘇国造流のオンリーワン。
神々の末裔たるぶっちぎりの名族。
'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`(←郷土史オタだから氏族にも萌えるwww)
豊臣秀吉の九州仕置きの時でさえ、武家としての阿蘇氏は滅ぼしたけど、
阿蘇神社・神官としての血統は残し現在でも子孫が神官を務めているほどです。
戦国期・阿蘇氏の各国衆に対する影響力は相当なものでして、
先日の大河でも城井(宇都宮)鎮房が謀反したキッカケとなった、天正年間における肥後国人一揆の時も阿蘇氏家老職だった甲斐家が加担したために、更に拡大して鎮圧が大変だったんです^^;
そういうことですので、相良氏と阿蘇家は戦した時もあるが、
何かの折(名和との盟約とか)には名代として頼んだりと、「阿蘇氏は相良の兄貴分」として面子を立ててたんです。
阿蘇へ仁義切らずに名和を攻撃したら、後々ヤバイかもしれん・・・|人吉|_ ̄)じぃー
1564年8月21日、阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運が隈庄城を攻撃した。
そこに相良勢も出陣~甲斐氏に協力して隈庄城を攻撃する。
名和氏攻撃という目的の為に、相良義陽は阿蘇氏を味方につけるべく、
阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運との協力体制作りを始めたのだが、
それは・またの話 by^-^sio