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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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相良義陽_50【相良と菱刈と薩州家と その7】

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≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、他の歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒元出典があるもの
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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年度不明---薩州家3代目・重久長女~菱刈相模守重福に嫁ぐ、二人の間に生まれるのが14代目重州

年度不明---相良氏16代目・義滋の娘~菱刈重任(14代重州の兄弟)に嫁ぐ
年度不明---菱刈重州(14代当主)の妹~~相良長時(16代義滋の従兄弟)に嫁ぐ
(サイト「戦国島津の女達」より)

薩州家と島津宗家14代目・忠兼(=勝久)の関係は、忠兼が伊作の忠良(=日新斎)を頼り、大永6年(1526年)に伊作から貴久を養子に迎えるまでは、薩州家にとっての「良好」でした。
で、薩州家が伊作に反撃~大永7年(1527年)6月に清水城の島津貴久を急襲、これを追い落として勝久(忠兼から改名)を再び守護へと戻します。

菱刈と相良が縁組によって関係強化するのは、この島津氏の内訌と無縁ではないでしょう。
つまり内訌で守護職の権威が衰える事により、国衆の勝手が通る状況になるから^^b

サイト武家家伝・菱刈氏によると
大永八年(1528)に島津勝久が、菱刈重副に牛屎院(大口領)のうち青木・長尾村を与えたそうです。
「島津氏は相良氏を懐柔して菱刈氏を牽制する策を図り、牛屎院を相良氏に譲渡していたが、相良氏はこれを受取らなかった。(サイト文中より)」
それで、島津宗家では菱刈を懐柔しようと、大口領の一部を与えたそうです。
サイトでは、島津宗家の働きかけでは、相良と菱刈の同盟関係は崩せなかったと締めくくってます
武家家伝の元出典は「三州諸家史・薩州満家院史/菱刈町郷土史/大口市郷土史」とありますが、
どれもネットなどでは公開してないので、この中のどれに記載されたデータなのかはシオ未確認です^^;

それとサイト文中にある「牛屎院を相良氏に譲渡していたが、相良氏はこれを受取らなかった。」がワカラン(@@)
どうも相良側に無いデータのようなんです^^;
少なくとも近代デジタルライブラリで公開している相良側データである「球磨郡誌」や「求麻外史」にはないです。
三次史料「菱刈史」にも「(前略)相良氏はこれを受けとらなかった」の部分は記載がないので、その部分は島津側データが出典なのかもです。

享禄3年(1530)、7月27日、16代・相良長唯と14代・菱刈重州の連合軍が大口城を攻撃する
デジタルライブラリ公開で気付いたのだが、
実はこれ元出典は島津側データ(「本藩人物志」島津忠明&「本藩人物志」菱刈重州)と菱刈側データ(「菱刈文書」菱刈氏系図 重、)でして、連合してたはずの相良側に記録が無かった ヽ(。_゜)ノ アリャリャ~
少なくとも相良側データである・・・以下同文~(=^・ω・^=)

江戸期二次史料は自分で所蔵してないので未確認ですが、WEB公開の三次史料「北伊佐史」「菱刈史」が菱刈側データです。
それと傍証として、伊佐市にある「西原八幡神社」の由緒(HP参照)が、相良&菱刈連合軍に触れてます。
(※西原八幡神社を建立したのは島津貴久)

攻撃した側と、された側、、、どっちも「相良と菱刈の連合軍」とあるのに、相良に記録がないのは何故だろう。
実は、この大口城攻略の前後、、、相良氏は内訌の真っ最中だったんです
ですから、この前後の相良側の記録は、内訌に関する記録がメイン。

内訌スタートが、大永4年(1524年)で、残党の処罰やら何やらで完全に治まるのが享禄4年(1531年)。
この間に内訌につけこんだ北原氏が相良エリアを脅かしたり、名和との争いに敗れて豊福城を失ったりと慌ただしい^^;
相良氏が天草地方へ勢力を伸ばし明との交易が始まり、戦国大名化へと飛躍するのは、その後です。

ただ享禄2年(1529年)の段階で一息つける段階になり、相良長唯(=義滋)は味方になってくれた実力者・上村頼興の長男(後の晴広)養子に迎えています。
大口領攻略に絡んだ菱刈との連合は、この一息ついた享禄2年(1529年)7月のことだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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