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相良義陽_54【粛清_中編】

≪記事内ルール≫
年号⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次史料が元出典
緑文字⇒⇒二次史料など編纂資料が元出典
他の色文字⇒⇒分析・推測・解説など
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
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イメージ・花

相良義陽に殺された叔父・上村頼孝には息子がいて、諱を長陸(ながみち)という。
父・頼孝は相良義陽の討手に殺害されるが、長陸は幼少であった為に許されたそうです。
(頼孝の嫡男・頼辰は連座で処断されてます)

・・・|ウィキペディア|・ ̄)じぃー・・・・『幼少』の二文字が気になる・・・・

長陸は成人すると義陽の勧めで、島津義弘と離縁し出戻っていた義陽の異母妹・亀徳と結婚しました。

父・上村頼孝が殺された永禄10(1567)年4月1日の時点で『幼少』だった長陸。
かたや、既に他家に嫁いで出戻っていた(と思われる・正確な年度不明)亀徳姫。

このカップルは、共に生年不明なので正確な年齢差も不明なのですが、上記の状況だと絶対に亀徳姫が年上姉さん女房^^;
下手するとMAX推定で10歳くらい、亀徳姫が年長だったかも・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

あぁ~~~何と言いますか・・・その~~~
これは想像なんですけど、義陽なりに離縁で傷心・亀徳姫の幸せを願ったんじゃないかな~と。

この亀徳姫と上村長陸の結婚は、罪人(過去の謀反の罪で殺された)となった上村氏の復活がSETです。
ですから、亀徳姫が年相応に容色が衰えても、子供が出来なかったとしても、彼女が粗略にされたり側室を置かれたりする事は絶対ないんです。
ということで、上村長陸に姉さん女房への拒否権はありません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
実際の夫婦仲は知りようもないですが、二人の間に鶴松丸(早世)、鶴満(那須重康室)が生まれています。

亀徳姫と結婚した上村頼孝は、奥野地頭にも任じられた。
奥野って何処かな~~と思いまして、上村氏が亀徳姫との婚儀で準一門として復活したって事を踏まえて・・・・
球磨郡多良木町奥野・・・と推測してました。
そこだったら、上村氏の本貫地があった球磨郡あさぎり町とは1~2kmほどしか離れてないので、謀反歴のある家が復活する地としては悪くない待遇です^-^
(謀反歴ある家が父祖伝来の本貫地完全復活は、有り得ないので)

が・・・上村長陸は何か不満があったらしい ( ̄ω ̄A;アセアセ
義陽の弟である相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、
義陽の後を継いだ相良頼房が、朝鮮の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。
慶長年間、その企てを知った者たちにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。法名は「正澤蓮貞」。

随身のところは、ともかくとして。
謀反の企ての方は、ホントに企んだのか、ちと判りません。
上村一族の往時の勢力復活を恐れた勢力による陰謀・・・と思ったりしないでもない^^;

なんで、そう勘ぐるかって言うと、亀徳姫です。
『南藤蔓綿録』によると、夫・長陸死後に尼となり原城の下原に住んだが、相良家家老である犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句、元和年間に餓死したとある。法名「西津良意」。
先代の主君の妹姫に対する処遇とは思えません^^;

おそらく、相良宗家と上村氏の確執が解消されることなく引きずった結果が、亀徳姫の晩年の不幸にまで及んでしまったのだと思います。
そのため亀徳姫の記録も少なく、生年不明は女子では珍しくないけど、島津義弘に嫁いだ時期も離縁した時期すら記録がないという異例の状態になりました。
(島津と相良・・・どちらも江戸期⇒幕末まで残ってるのに、結婚も離縁も記録なしは珍しい)

ちなみに亀徳姫は死後、祟りをなしたそうで(そりゃそうだ)
姫を粗略にした家老の孫・相良頼章(母は島津家久三女)が、草むらの中から墓を探し出し供養塔を建てたそうです(by南藤蔓綿録)

さて、時計の針を巻き巻き~~義陽には、もう一人謀反歴のある叔父がいるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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