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相良義陽_56【派閥】

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≪記事内ルール≫
年月日⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次史料出典
緑文字⇒⇒二次史料や補足となる部分
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。

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イメージ・花

1567年産まれの武将は、やたら多く「花の67年組」と呼ばれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
冗談ぬきで、義陽からみとだと、次女・千満姫が生まれました(月日は不明)。

1565年に産まれたのが娘だったので、嫡男誕生目指してハッスルしたのでしょう。
結果から言うと、正室との間には娘しか産まれなかった為に、義陽は側室を迎える。

愛情うんぬんは別にしても、出来うるものなら正室との間に嫡男を儲けたかったに違いない。
何故なら義陽の父・晴広は、支族である上村家から入った養子だったからです。

それだけでなく、義陽は生母も家来筋で、生母実家の家格は高くなかったみたいなんです。
ですから義陽は人吉城内ではなく、生母の実家で生まれています。
もしかしたら義陽誕生当時、生母は未だ正室ではなく側室だったかも・・・

というのは、義陽には同年同日生まれの異母弟がいまして、義陽が嫡男と決する時には「老臣会議による決定」という手順を踏んでるんです。
はなから正室から生まれてたなら、生まれた時点で義陽が嫡男のはずですから(´・д・`)

とにかく、生母の家格が低いというのは、武家の当主において地味ながら大きく影響します。
島津当主で統治が思いのままにならず絶望して自害した島津忠昌も、生母が家来筋でした。
生母の家格が低いということは、生母実家が家中でイニシアチブをとれるような政治力絶無・・・という事です。

ですから島津忠昌や相良義陽のように、若年で働き盛りのパパンが死んじゃうと、自身で政治的主導権がとれず物凄い苦労する羽目になります( ̄ω ̄A;アセアセ
どちらも叔父さんや分家が、謀反してるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

義陽の父・晴広は養子ながら名君の誉れ高く、かつ、その偉業を実父である上村頼興が支える(つまり汚れ役の実力者)という幸運に恵まれたが、
上村頼興亡き後の義陽には、強力・剛腕の後ろ盾が無く、このままでは何処までいっても「傍流の当主」で終わってしまう。

亡き16代当主の末娘(系図上では義陽の叔母)を正室にしたのも、
足利義輝から「義」の文字を拝領して「義陽」と改名したのも、
「修理大夫」という国持ち大名クラスの官位を貰ったのも、

全て傍流の当主である義陽の権威付けの為だった(と思われる)のだが、これだけ努力しても家中の統制がとれないのが肥後という国の難しさです。

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人物・相良義陽
 橘朝臣幸麿さまより相良義陽イメージ画像

で、ここらあたり再整理しますと、最盛期の相良氏の支配エリアは球磨郡・水俣郡・八代郡、天草地方。
で、八代は家臣ではなく国衆の連合体でして、他とは性質が異なってました。
そのため、相良氏当主は八代と人吉(球磨郡)を定期的に行き来して二元統治してたんです。

それと関連すると思うんですが、実は八代衆と球磨衆は戦場で轡(くつわ)を並べたことが無く、合同で作戦行動を起こした記述は、豊福奪還の際に派兵した一回のみでした。

大口城の在番も交代で、球磨衆と八代衆のメンツが被ったことが無いとのことです。

国衆と家臣団・・・格別な確執が無かったとしても、そういう組合せでは対抗心がムクムク湧いて、互いに功を張り合うのは必然でしょう。
その中で「島津交戦派(血気盛んな若衆」と「穏健和平派(おそらく重臣クラス」が対立する構図が出た・・かなぁ~という推測^^。

推測:亡き晴広の13回忌で一人だけ剃髪した深水長智が穏健派
義陽が叔父を粛清した時に縁故のない八代衆の討手を出し、深水が球磨衆(おそらく深水の同族)から「討たれ役」を出してます。
こういう政治的なバランス感覚は「穏健派」のものじゃないかな~と^^

推測:交戦派リーダー格が赤池長任・・・・と思う

大口城在番は、もっとも島津との交戦確率が高い部署で、島津と戦になれば武功チャンスも多くなる。
赤池は「用心・堅固に」という命令を無視し、島津を挑発して敗れています(局地戦)
年齢も推定で30半ばで、叱責を受けた丸目の後任でスライド出世したので、身分相応の武功を欲している・・・
好戦的な若衆たちが煽って祭り上げる指揮官としては、うってつけの人材です。

華やかな戦歴記述とは裏腹に、相良関連の記録から突然に姿が消えるため没年不詳の赤池長任。
交戦派だったとすれば、島津に降伏した相良家中で失脚し、表舞台から完全に弾き出された・・と妄想してみた^^

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家紋・相良
 ロン様作成、相良家紋ロゴ

穏健派と交戦派がいた・・・という推測で行くと「義陽の行動の謎」が見えてくる。
ネタバレになるのだが、相良義陽は島津氏と『和睦⇒裏切り』を繰り返し行動に一貫性ゼロ^^;
ちなみに島津と和睦をしながら裏切るのは常に相良氏の方です。

大河ドラマでは島津の扱いは悪役というか咬ませ犬位置というか、(´;ω;`)ウッ
一方的な側面しか出てないのですが、相良に関して言うと義陽のブレブレが大きすぎて、島津にすれば「相良義陽は信じられない」のは無理もないわけです(´・д・`)

生母の家格が低い相良義陽には大きな後ろ盾はなく、政治的なイニシアチブを握るのが困難だったのではないでしょうか。
亡き父の実家である上村の叔父たちを粛清したのも、そのあたりと絡んでそうな印象を受けます。
叔父を粛清した永禄10(1567)年で義陽は数え24歳。

若年で当主になったものには必ず後見人がつきます。
親族(祖父とか叔父)が実力者だと、ある意味でパワーバランスがとれるけど、老臣や親族らの政治力がドングリの背比べだと家中の方針が定まらずブレまくる ( ̄ω ̄A;アセアセ

武家の男子が家督を譲られるのは二十歳前後・・・
でもパパは現役で「息子が若年」を理由に実権は放しません^^;
大友氏でも義鑑が23くらいになるまで、パパや叔父さんに後見されてました。


何が言いたいかっていうと、二十代前半から半ばが『実権を他の人に握られてた当主』が独り立ちする御年頃♪って事です。
数え24で豊福城も奪還するという実績を掴んだ義陽には、謀反歴のある叔父たちは不要になったんです。

が、結局のところ叔父たちを粛清しても、義陽自身が家中の政治主導権を握れなかったのでしょう。
対島津外交はブレたままで、義陽自身の命運も尽きてしまいます。

さて、義陽の裏切りからパタパタと~ドミノ倒しの最後一枚で飫肥城を失った島津の怒りの矛先は、大口城に向かった。
そして、そのための橋頭保として、相良家と同盟(被官化)していた菱刈家を狙うのだが、それは・またの話 by^-^sio

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