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田尻家文書3_大友親宗知行預ケ状

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原文
読み下し(てるつもり)
超意訳

(折封上書)
「田尻左衛門大夫殿        親宗」
(異筆)
「文明十六年九月廿七日加領四十町     左衛門大夫田尻恒種」

(以下本文)
蒲船津百町之事、今程無足事候之間、少候へとも、為代所、先以、東久米四十町事、預進之候、可有知行候、恐々謹言
蒲船津百町の事、今ほど無足事候の間、少なく候(そうら)へとも、代所の為、先(ま)ず 以(もっ)て、東久米四十町、これ預進(よしん)候、知行有る可(べ)く候、恐々謹言

九月廿七日       親宗(花押)
田尻左衛門大夫殿

**********************************************

蒲船津---柳川市三橋町蒲船津
東久米---特定出来ず(無念・・)
無足(むそく)---知行の料足 (りょうそく) のない意

てことを踏まえて以下、恒例の超意訳~~~

蒲船津百町の事だけど・・・・いま、ちょっと足りない!Σ(´Д`;)はぅ
少ないけど、ひとまず代わりって事で、東久米四十町預けます!!恐々謹言なぅ!!

****分析****
これ、田尻家文書2にあった(異筆)と連動してるみたいです。
だから出した人物は筑後詰郡代の田原親宗(←推定)
受け取った人物は田尻恒種(←推定)になるみたい。
年度不明だから、あくまでも推定です。

田尻家文書2の(異筆:文明十六年三月廿四日加領百町)とあるので、
どうも百町あげるって約束してたってことなんでしょう。
ところが肝心の知行が足りず、代替え地としての東久米40町のようです。
100より足りないので「少候へとも」って書いてる訳です。

ところで、この異筆の安堵関係ですが、田尻家文書には収蔵されているけど、柳川市史の年表には含まれていません。
自分が編集(←図々しい前提www)だったとしても、この異筆に絡む部分は入れないと思います。
理由は二つ
 
・異筆が誰の手によるものなのか不明
・書状本文に年度がない

安堵や権利関係は年月日が明瞭でなければ、効力が発生しません。
筑後詰郡代の田原親宗の花押があっても、年度がない以上は効力発生期間が定まっておらず、この段階では単なるリップサービスなんです。

この書状が年欠でなく○○年とあれば、このまま安堵状として認定です。
が実際は、安堵に絡む内容なのに年欠・・・・
という事は、奉行衆による手続きの文書・・・書き止め文言が『依執達如件』で終わる『奉書』が無いという事で、
即ち、異筆に絡む内容に関しては正規の事務手続きが終わってないんです。


名門である大友家は、このあたりの手続きがキッチリしてて、奉書がないのに土地手続きを終わらせるような事(超法規的措置)はしません。
逆に奉書がない理由は不明です。
もしかしたら「まさかの紛失・・・il||li _| ̄|○ il||l」かもです( ̄ω ̄A;アセアセ
とにかく奉書がない以上は、安堵状としてはカウントできないんですよ~って残念な話でした^^

・・・と終わるつもりだったんだが・・・・気になる・・・・

|蒲船津|・ ̄)じぃー・・・・・・・・
津は湊(みなと)のことでしょ・・・更に船って文字がついてる・・・永正年間の時点で停泊地として機能してる?
郷土史オタのセンサーに感あり!(・∀・)ピコーーン☆

てことで再検索したら、なんと弥生時代から集落がある土地だった( ゚д゚)ンマッ!!
戦国時代にも集落の痕跡あり・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
蒲船津城!
龍造寺四天王・百武志摩守の妻・圓久尼が女城主した城って、ここの事だったんだ!(@@)
(戦国初期ばっかり調べてるから、地名で気付かなかった il||li _| ̄|○ il||l)

天正年間で柳川・蒲池氏の支城だった蒲船津城・・・
てことは、やっぱ田尻氏は蒲船津100町を貰い損ねたのね,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
古くから利用されてた津(=湊・みなと)だったみたいだから、田尻氏は欲しかっただろうな~^^;

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