永禄四年の頃、前太宰少弐冬尚の舎弟に御曹司元盛という人があった。
父の資元が天文の初めに多久にて生害されたときは未だ幼く、妹君と共に少弐の旧領・佐賀郡川副の江上村福満寺に些か所縁があって忍び居たのであるが、譜代の家臣≪今泉朝覚≫が資元の遺言により撫育し、永禄四年に元盛は既に27歳になったと聞こえた。
父の資元が天文の初めに多久にて生害されたときは未だ幼く、妹君と共に少弐の旧領・佐賀郡川副の江上村福満寺に些か所縁があって忍び居たのであるが、譜代の家臣≪今泉朝覚≫が資元の遺言により撫育し、永禄四年に元盛は既に27歳になったと聞こえた。
この朝覚、まだ若かりし頃に少弐衰亡を嘆き、如何にしても朝廷に会って当家を再興すべしと思い立ち、出家に姿を変え播磨坊朝覚と名をやつすと、まず六十六箇国を廻って諸家へも心を合わた上で上洛を遂げ、竹苑柳房を初め公家方に縁を求めた。中でも柳原大納言資定卿の元へ常に近づき奉った。
然るに朝覚在京のとき、頃は大永元年に東山祇園社に参詣し、
「南無帰名頂礼牛頭天王、願わくば和光の憐を垂れ、朝覚が心中の願いを成就なさしめたまえ」
と臥して頼み、新たに宮殿を修造し、その社の辺りに杉と松とを多く植え置いた。
「南無帰名頂礼牛頭天王、願わくば和光の憐を垂れ、朝覚が心中の願いを成就なさしめたまえ」
と臥して頼み、新たに宮殿を修造し、その社の辺りに杉と松とを多く植え置いた。
だが神官らは、朝覚の礼を訝しく思いこれを逐一報告していた。
奈良院は朝覚を法橋上人に補任の上で、
「上人、辺鄙の身として在京し祇園造営したこと、どのような仔細あってのものか」と問うた。
奈良院は朝覚を法橋上人に補任の上で、
「上人、辺鄙の身として在京し祇園造営したこと、どのような仔細あってのものか」と問うた。
朝覚が申すには
「愚僧は元来、太宰少弐譜代の家人・今泉朝覚と申す者です。私自身のことには何ら願いは御座いません。しかしながら主の少弐は、九代を貫いた主なれども、近年鎮西の輩に威を奪われ、政資父子兄弟は明応年中に所々にて討たれ、その後に家は衰微して政資の末子資元一人のみ残ったものの、当時は浪々の身にて肥前国藤津という田舎の山中に罷り在りました。名家の民間に下がりしこと、その家人として某はこれを憂い、此度の上洛のついでに牛頭天王の擁護を頼み申した。願わくば聞き届けられ、廃れたる少弐家を御立て給わりたい」
と泣く泣く答えた。
「愚僧は元来、太宰少弐譜代の家人・今泉朝覚と申す者です。私自身のことには何ら願いは御座いません。しかしながら主の少弐は、九代を貫いた主なれども、近年鎮西の輩に威を奪われ、政資父子兄弟は明応年中に所々にて討たれ、その後に家は衰微して政資の末子資元一人のみ残ったものの、当時は浪々の身にて肥前国藤津という田舎の山中に罷り在りました。名家の民間に下がりしこと、その家人として某はこれを憂い、此度の上洛のついでに牛頭天王の擁護を頼み申した。願わくば聞き届けられ、廃れたる少弐家を御立て給わりたい」
と泣く泣く答えた。
その旨は悉く奏聞され、公卿は詮議の上で追って綸言すると下されたが、朝覚は力及ばずそのときはとりあえず帰って行った。
しかし、天文七年に上洛したときに再びこれを訴えると、少弐再興の事を鎮西の武士どもへ綸旨下されるべしと伝奏の者から朝覚へ言い渡される。
朝覚は大いに喜び、この勅書を帯びて天文九年に筑紫へ下向、大内義隆・渋川尹繁を初め鎮西の諸将へこれを披露したが、皆勅命に従わなかった。
朝覚は力及ばずして年月を送っていたが、この永禄四年に上洛し少弐再興を以前の様に訴え出た。
朝覚は大いに喜び、この勅書を帯びて天文九年に筑紫へ下向、大内義隆・渋川尹繁を初め鎮西の諸将へこれを披露したが、皆勅命に従わなかった。
朝覚は力及ばずして年月を送っていたが、この永禄四年に上洛し少弐再興を以前の様に訴え出た。
このとき下された綸言は、
「朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが、彼の少弐という者は将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである。強いてまたこれを立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる。故に天意が及ばないのである。。この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される」
と伝奏の者から伝えられた。
「朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが、彼の少弐という者は将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである。強いてまたこれを立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる。故に天意が及ばないのである。。この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される」
と伝奏の者から伝えられた。
朝覚は元盛の居る肥前川副庄へ下向した。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。
朝覚はその後、元盛へ言うのは
「多年心を砕き、公を世に立てんと思い京よ田舎よと奔走いたしけれども、時至らざれば力なし。所詮、今の様に有るか否かの有様です。賎家の塵に穢れられるよりは、今は仏門に入られ、無上菩提を求められませ」
と涙ながらに述べれば、元盛も袂を濡らし、兎も角もよきに計らうべしと主従連れだって高野山に登り、元盛は真福院にて髪を剃り、明くる永禄五年に密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。
「多年心を砕き、公を世に立てんと思い京よ田舎よと奔走いたしけれども、時至らざれば力なし。所詮、今の様に有るか否かの有様です。賎家の塵に穢れられるよりは、今は仏門に入られ、無上菩提を求められませ」
と涙ながらに述べれば、元盛も袂を濡らし、兎も角もよきに計らうべしと主従連れだって高野山に登り、元盛は真福院にて髪を剃り、明くる永禄五年に密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。
然るに朝誉法印に幼少より付き従う家人三人があった。
その中の一人は今泉朝覚、ならびに窪・平原である。
その中の一人は今泉朝覚、ならびに窪・平原である。
法印はこの三人の従者を召して申すのは、
「我は往日は一度少弐の名跡を継ぎ、汝らを股肱として生前の恩を報じようと思ったが、ついに本懐を遂げず仏門へと入り忍従の法衣を纏った。誠に前業の感ずるところ悔いるべきにあらず。君臣、三世の宿縁あって主従の契りを結ぶと聞く。然るに汝ら、今まで我に付き従い撫育せい忠心の程、思えば海よりも深く山よりも高い。だが今となっては付き添っても詮無きことである。三人共に急ぎ禄を求め、どこぞの主にでも仕えよ」と述べた。
「我は往日は一度少弐の名跡を継ぎ、汝らを股肱として生前の恩を報じようと思ったが、ついに本懐を遂げず仏門へと入り忍従の法衣を纏った。誠に前業の感ずるところ悔いるべきにあらず。君臣、三世の宿縁あって主従の契りを結ぶと聞く。然るに汝ら、今まで我に付き従い撫育せい忠心の程、思えば海よりも深く山よりも高い。だが今となっては付き添っても詮無きことである。三人共に急ぎ禄を求め、どこぞの主にでも仕えよ」と述べた。
そして、名残も今は是までと、家に伝わる懐刀と名筆の八代集を今泉に与え、また少弐の文書と錦の旗一流・太刀一振とを窪と平原に下賜した。三人とも言葉もなく、むせび泣きながら退出した。
隔して今泉朝覚は天正八年正月二十日、齢八十にして大往生を遂げ、元盛法印は同十四年四月二十四日、齢五十二にて福満寺にて遷化した。
北肥戦誌原文の順番としては1561年(永禄4)の於安が嫁いだウンヌンの後に記述が続いてます^^;
ちょっと(?)前後しますが、少弐関連ということで、強引に間に挟めるより、単独でアップしました。
現段階でリサーチは1559年1月までなので、それ以降の内容に関する質問は今は未だ御勘弁下さい。
ちょっと(?)前後しますが、少弐関連ということで、強引に間に挟めるより、単独でアップしました。
現段階でリサーチは1559年1月までなので、それ以降の内容に関する質問は今は未だ御勘弁下さい。
ん~~~考察っすか?
というか、記事に呟かないと脳内整理出来ないドンくさいシオなんで、まったりやらせて下さい^^
というか、記事に呟かないと脳内整理出来ないドンくさいシオなんで、まったりやらせて下さい^^
個人的には、少弐冬尚自害~今山合戦あたりで、龍造寺は戦国大名として「質的変化(かなり劇的)」が起きてると考えてます。
これまで敵方だったものが、あらかた整理され滅ぼしたり配下にと淘汰されるから。
「敵方」の定義も、初期は東肥前国人だったのが、有馬関連が一気に増えます。
これまで敵方だったものが、あらかた整理され滅ぼしたり配下にと淘汰されるから。
「敵方」の定義も、初期は東肥前国人だったのが、有馬関連が一気に増えます。
この成長・拡張スピードの猛速さも龍造寺と織田家は似てます。
そして次世代継承前に、失速したのも・・・
そして次世代継承前に、失速したのも・・・
信長死後の織田家臣団で豊臣秀吉と柴田勝家が混ざったような立ち位置にいるのが、我が殿・鍋島直茂になります 川* ̄д ̄*川ポッ
決定的な違いは、龍造寺は仇敵として因縁のある家同士が直接雇用されてる事です^^;
決定的な違いは、龍造寺は仇敵として因縁のある家同士が直接雇用されてる事です^^;
織田さんとこは世帯が大きいからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
甲斐国出身の失業者は、徳川カンパニーが引き受けてくれたでしょ~
保証問題とかが「織田家⇒旧織田家臣」から責任の所在が離れてるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
甲斐国出身の失業者は、徳川カンパニーが引き受けてくれたでしょ~
保証問題とかが「織田家⇒旧織田家臣」から責任の所在が離れてるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
殿(鍋島直茂)の気苦労は、普通の人なら過労死・労災認定のレベル・・・il||li _| ̄|○ il||l
龍造寺が内包する矛盾は「少弐冬尚自害~今山合戦」の頃がキーになるんで、
龍造寺が内包する矛盾は「少弐冬尚自害~今山合戦」の頃がキーになるんで、
つまり、これからの年代をリサーチしてからでないと、「まだ、よく判んない~~」なのです^^;
あと11年分ですな・・・( ゚Д゚)y─┛~~精進すべし
あと11年分ですな・・・( ゚Д゚)y─┛~~精進すべし