北肥戦誌には、ときおり各家の由来が出てきます。
記述の順番としては、いろいろ前後しちゃうんですが、話の流れとは別の閑話休題的なものなので、由来は由来で別にUPします。
まぁ北肥戦誌外伝?的な?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
《執行越前守伴朝臣種兼》の先祖は元来、下関の神崎櫛田宮の執行職である。
この櫛田というのは、忝くも聖王の勅願に異国の賊船退散のため、往古から三社の大明神を肥前国神崎郡に崇め奉る社で、所謂、櫛田・白角折・高志社とこれらは稲田姫を祀るところの九州最大の大社である。
その神領は、北は山内・藤原を限り、南は海際崎村まで、東は米田原、西は尾崎村まで分量数千町、これを名付けて神崎の御庄という。
年中の神事は。古は13度であったが、中頃になると鎮西は大いに乱れ、山賊・海賊が満ち満ちて、祭礼の勅使が下向することが叶い難かった。これにより略され年中3度とした。
さて今の執行種兼の先祖は、天忍日命の苗裔である伴國道12世の孫・伴兼資と号し、人皇84代順徳院の治世である健暦年中に当社の執行別当職に補せられ初めて下向し、健暦3年12月19日の午の刻、修造上棟のときにこの職を勤める。その子息・伴太郎兼篤朝臣は変わらず父の職を受けて、肥前に在国し当社の司職であった。
人皇90代後宇多院の治世である弘安の頃には、蒙古の数千艘が筑前国博多へ襲来し天下の騒ぎとなったため、公家・武家の執政により櫛田から東田手村に蒙古御祈祷所として七堂伽藍を建立した。また、東妙寺南西大寺の唯圓上人を以てこの寺に居住してより、東妙寺を櫛田宮の修理別当と定められる。
その後、東山殿義政将軍の康正3年7月29日の修造上棟のとき、《本告資景》を以て宮柱とした。
この御社、その後は公家・武家の崇敬も失われて神領も減少し、3度の神事すら絶えていった。
隔して、近代の執行は江上に招かれ竹原に在城し、本告は牟田に居城を取り構えた。
そして、今の越前守の祖父・兼貞のとき初めて苗字を称し執行と号す。
その子が執行直明、その子が越前守である。
(元々は元亀3年、執行が活躍し筑紫貞治が実は綾部の本城にいたとの記述の後に続いてました)