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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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◎『渋江家由来の事』

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う~ん、このあたりになると全く判らんちん~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

東肥前は少弐が絡む事もあって、猛勉強したんですが、
その反面?反動?というか、西肥前は未知との遭遇~~~じぇじぇじぇ!(゚ロ゚屮)屮
それで、新章に入る前の史料整理に時間かかってました^^;

もっとも取り急ぎアップしてるだけで、個々の史料精査は手つかずという恐ろしさ (((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

この渋江由来の事は、元々北肥戦誌1563年に挿入されていたのを、抜粋したものです。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5275131.html

直接、龍造寺に絡まない部分が記述されてる上に時系列にヽ(。_゜)ノ へっ?な部分があり、
関連性がサパーリ判らんちん~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1563年の北肥戦誌では、大友宗麟がボロクソに言われてるんで、興味ある方はURLどぞ~後半部分です

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_9?1337252024

この盬見城主渋江氏の祖先は何かと尋ねるに、人王31代敏達天皇の5代の孫・井手左大臣橘諸兄公の末葉である。

この諸兄、才知の誉れ世に高く、聖武天皇の頃には、既に政道の補佐をしていた。

その孫子・従四位下兵部大輔島田丸は尚も朝廷に仕えていた。

しかし神護慶雲の頃、春日の社を常陸国鹿島より今の三笠山に移らせたとき、島田丸は匠工の奉行を勤めたのであるが、内匠頭何某が99の人形を作り匠道の秘密を以て加持していた。

この人形に忽ち火が燃え移り風が舞って童の形に変化したのを、ある時は水底に入れ、ある時は山上に倒れて神力を発揮し、召しつかわれている間、思いの外に大功をなし早速に成就するに至った。

隔して御社造営が成就したあと、この人形を川中に全て捨てた のであるが、変わらず動き続け、人馬6頭を侵して甚だ世の禍となった。

今の河童とはこれである


このことを聞き及んだ称徳天皇は、そのときの奉行である島田丸に急ぎこの禍を鎮めるよう詔を下した。

島田丸がその勅命を奉じ、その赴きを川中水辺に説いて回れば以後は河童の禍はなくなった。

これよりこの河童を兵主部と名付ける。元より兵主部を橘氏の眷属とはいっていった。

島田丸六代の孫・大納言好古のときの天慶4年、朱雀院より征西将軍の勅号を賜り逆臣・藤原純友を討って伊予国を賜ったのであるが、子孫九代の間はこの国に住まわなかった。

その九代の嫡孫を橘次公葉といい、鎌倉頼経将軍の近習となって薩摩守を受領した者である。

この公葉のとき、先祖累代の領地・伊予国宇和郡を禁裏が常陸井関白へ下賜したのであるが、その替地として、公葉へは豊前国副田庄・肥後国久米郷・大隅国種子島・肥前国長島庄が与えられ、嘉禎3年はじめて伊予から肥前へ入り、長島庄に移って盬見山に城郭を構えて居住した。

公葉には6代の孫・橘薩摩弥次郎公継、その子・公経、同じく弥五郎以下、建武・暦応の合戦で将軍方に属して勲功を重ねて恩賞に預かった。

今の豊後守公師は公葉から16代の後胤である。

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