あぁ、明日は絶対寝坊できない~~~ヽ(*´∀`)ノ
橘朝臣幸麿さま作画・晩年の新納忠元イメージ画像
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出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)
※菱刈史以外を参照した時は別色文字で表記します。
『南藤蔓綿録』では大口城より大勢がまかり出て、東藤左衛門・上村弥五郎・的場自休その他数十人で追い掛かって市山城の本丸まで忠元を追い込んだとあります。
菱刈史に話を戻すと
・・・四面を囲み、球磨の士・東藤左衛門、愛甲助三郎、佐牟田守念等、先登に進み壁を越えんとした。
市山城側の鎌田壱岐守、税所右衛門兵衛、四元太兵衛、之を斬殺し門を開いて出撃つた。
ふむ・・・人物名で共通しているのが、相良側家臣の東藤左衛門だな・・・|菱刈史&他データ|・ ̄)じぃー
東藤左衛門は、岡本頼春の次男で、相良義陽の祖父・上村一族の縁戚になります。
相良側のほうでも東藤左衛門が討死したとあるので、二次史料同士とはいえ記述が一致してるから、東戦死は確定ですね。
で、続いて市山の城兵も突き出でて戦ひ勢いを得て、菱刈軍■き破れ大口に退いた。
(■部分は、印刷の字が潰れて判読不可^^;)
なるほど~~親指武蔵を討ち取る、せっかくのチャンスを活かせなかったわけか^^;
再び『南藤蔓綿録』によると、上記の「追い込んだ」・・・の記述に続き、
後に相良が島津に従属した際に犬童頼兄が忠元にこのときのことを聞くと、忠元は小耳の根にある傷を見せ、本丸で的場自休と槍を合わせたときの傷だと述べ、頼兄は大いに笑った・・・
という内容で終わってました。
なんか笑って話を換えたか、その場を誤魔化した感じで、それ以上は深く触れてないんです。
島津きっての猛将として名高い新納忠元が、小勢で城外に出てて首尾よく手傷も負わせて、
こんな好条件は滅多になかったのに、逃げられた上に反撃されて・・・
結果として菱刈&相良の大敗だった。それで相良側二次史料がモヤっとした書き方になっちゃったみたい。
市山の城兵北くるを追ひ首級数多(あまた)得て勝った。(=^・ω・^=)v ブイ
「北くるを追い」って何ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
来たくる・・・かな?^^;
忠元、此の日、傷を蒙(こうむ)る事、六ヶ所然も痛を忍びて諸軍を指揮したので
貴久公、長谷織部佐を市山に遣はし、忠元が功を賞された。
本藩人物誌によると負傷は頭と腹で六ヶ所だったとかで、
頭の傷の内一つが、南藤曼綿録にある小耳の根なわけね (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)フムフム
・・・ってリンパ腺の周辺じゃん~~~すっごい痛そう^^;
のちに新納忠元は「我ながらこの時は随分と働いた」と述べた・・・確かに。さすが猛将です。

この永禄11年(1568年)2月28日における合戦は島津家臣・新納側の勝利に終わった。
だがノンビリする間もなく翌月に、再び菱刈からの攻撃が曾木(伊佐市大口曽木)で展開する。
「戦士に休息なし」ですな( ゚Д゚)y─┛~~
島津の菱刈討伐が膠着した一番の原因は、菱刈勢が相良から支援を受けているからです。
菱刈討伐が始まった永禄10(1567)年~11年にかけて、一次史料である相良家文書は二通しかありません。
残っている江戸期二次史料だけでは、当時の相良義陽が何を考えていたかサッパリ判らない^^;
相良ファンとしての個人的な推測は、義陽自身は島津とのガチ戦を望んでいなかったように感じます。
永禄12年に島津と相良の和睦バナが出るのだが、それは・またの話 by^-^sio