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![イメージ 1]()
今回からは有馬氏~本業の肥前と関連するものです(=^・ω・^=)v ブイ
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳
(折封ウハ(上)書)
「 有馬
相良殿
御報 晴純」
「- ーー」(端裏切封)
芳礼令披見候、仍官務殿就帰路之儀、此堺驚(警)固等之事、被仰越候、随分致馳走候、其趣御使儈御存知之前候之条、不及口能候、次龍造寺一類蜂起候之間、近々至小城表一手遣為可取成、令出張候、案利不可有程候、心事猶期来喜、令省略候、恐々謹言
(天文十四年)十弐月廿二日 晴純(花押)
相良殿
御報
芳礼披見せしめ候、仍(よっ)て官務殿帰路の儀に就いて、此の堺警固等の事、仰せ越られ候、随分馳走致し候、
御礼(の手紙)見ましたよ~
官務殿の帰りなんですが、国境まで警固って話があったんで、随分馳走・・・随分奔走しちゃいました(^ -)---☆Wink
官務殿=小槻(大宮)伊治(おずき これはる)---この後の文書の登場するので、その時に改めて説明します。
芳礼=芳の文字は相手への敬意ですので訓読には含みません。
其の趣は前の御使儈御存知の候の条、口能に及ばず候
そのあたりの事は前の御使者が御存知のことなので、口能(こうのう=斡旋)には及びません^-^
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本業関連は読み下しが進む~~(*´pq`)ウフフ
段落としては、ここで一区切りになります。
古文書というか昔の文章って改行しないから、内容で判断するしかないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
相良氏を訪問してた【官務殿】が無事に帰れるように、有馬氏に警固を頼んだようです。
有馬ってことは、陸路ではなく海路を使ったんじゃないかな。
このあとの文書に出るんですが、帰りコースで藤津を通過してます。
官務殿の説明は違う文書でしますので、ここでは割愛します。
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次 龍造寺一類(一門)蜂起候の間、近々小城表に至り一手遣わし取成し為す可(べ)く出張せしむ候、案利(あんり)程有る可(べ)から不(ず)候、
次、龍造寺一門が蜂起した話ですが、近いうちに小城表へ兵を遣わし取成しに出張する予定です。
まぁ、思い通りになるでしょう。
心事 喜び来る猶期 、省略せしむ候、恐々謹言
これから新年を迎えるんですが、御挨拶は省略します~恐々謹言なぅ
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おにょれ有馬め~~~(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
人物・有馬仙巌(晴純)~久々登場、有馬晴純イメージ画像
天草地方にチョッカイ出しかけてた有馬氏が、その後に関心を失った(らしい)理由は、史料が残ってないので憶測するしかありません。
天文年間の有馬の動きとしては、南下ではなく小城⇒佐賀を目指して肥前を東進してるんです。
最盛期だった有馬氏は島原半島~六角川流域までが勢力エリアで、更に小城&佐賀郡を窺う勢いでした。
有馬にとって美味しい状況になったのが、少弐氏が龍造寺の台頭を恐れて潰しにかかったことです。
そのために少弐氏は有馬と手を組み、小城、佐賀へと有馬軍を招き入れてしまいます。
もっとも少弐にすれば、有馬だって本来は少弐の被官でしたので「手を組む」って感覚じゃないのかも^^;
一門を騙し討ちされた龍造寺剛忠(家兼)は、再起のために蜂起し城を奪還、領内から少弐らを追い出しました o( ̄Д ̄θ★ケリッ!
ちょっと天文13年か天文14年か年度推定に迷ったんですが、
「龍造寺蜂起」とあるので翻刻版にある通り天文14年なんだと思います。
キリシタン(史料の宝庫・神社仏閣破却)で龍造寺の台頭で一度没落し、江戸期は本貫地から離れたのもあって、有馬氏に関する中世・戦国期の一次史料は潰滅状態。
他家に残る一時史料で足跡を辿るしかない状況です。
にしても天文年間の有馬氏と相良氏が交流してたのは、今回初めて知りました( ゚д゚)ンマッ!!
どうやら有馬晴純は再度、小城郡(佐賀県小城市)へ出兵するつもりだったようです。
表向きの名文としては「(少弐と龍造寺の)取成し」だったようで^^
有馬の脳内構想では「案利(あんり)=勝利or思い通り」になる予定だったみたいですが、結果として出兵してません。
それも有馬側史料がないので憶測になるんですが、少弐が敵となった龍造寺(村中宗家)が大内義隆の被官になったのが影響したんじゃないかな~と^^
とにかく、この文書は天文年間の有馬晴純の心底がチラ見できる、肥前にとって貴重な一次史料なのです^-^