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相良家文書337_天草尚種書状

本業は肥前ですが図書館に返却する都合上(以下略
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333、336、と今回の文書は連動しているので、年欠ですが同じく天文年間のものと推定されます。
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳

「- ーー」(端裏切封)
実久之一通、加披見、返進之候、
如御礼、厥己後者無音、心外候、曾非粗略之至候、仍薩州此方就和睦之儀、預御使儈候、祝着候、愚意之趣、先日以観音寺令申候、于今同前之覚悟候、可然於御調達者、可爲本望候、次有馬晴純被申旨候条、上津浦方申合候、爲御存知令啓候、其面無異儀之由承候、専一候、心緒連々可申談候、委細猶松源寺可有演説候、恐々謹言
    十一月廿九日   (天草)尚種(花押)
   相良殿  御報

実久の一通、披見を加え、返進(信)の候
実久からの書状を見て返信しました__φ(.. ) メモメモ
御礼の如く、厥(その)己(以)後は無音、心外候
御礼の後は音沙汰がないですって( ゚д゚)ンマッ!! そんなん思いもしなかったよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
粗略の至り曾(かつ)て非ず候、仍(よ)って薩州とコチラの和睦の儀について、御使仲買(ちゅうかい)預かり候、祝着候
失礼した事なんて今までないっすよ(*´m`)
ですから薩州家との和睦について仲介頂き、お祝い申し上げます(^-^)
愚意の趣き、先日 観音寺を以て申さしめ候
当方の考えについては、先日、観音寺を通じて伝えました。
于今(いまに)同前(どうぜん)の覚悟候、然る可(べ)く御調達に於いて為す可(べ)くは本望に候、
今までと同様の覚悟でいますし、御調達をすることは本望です(`・ω・´)
**************************************
ここまでで文書の内容としては一区切りになります。
宛名に御報とあるので、これは相良からの書状に対する天草からの返信です。
で冒頭に「実久の一通を見た」とあるので、相良では実久からの書状も同封してたようです。

で、実久からの手紙の趣旨は、内容から鑑みるに「たぶん天草へのクレーム」^^;
自分への挨拶がないから無礼とかなんとか相良に文句いったっぽい^^;
実久から見れば「薩州家の家格の方が天草より遥かに上!(`・ω・´)キリッ」って思いがあるので、
天草から何がしか薩州家へアプローチすべき(と実久は思ってる)なのに「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.音沙汰ねーぞ!」と。
直接天草に言うと角が立つから和睦の仲介した相良へ書状出したって感じだなぁ |文書|・ ̄)じぃー

で、相良からの書状と、同封されてた実久から書状に対し天草が
え~~~そんなつもりないですぅ(ブリッコ)~~~と、すっとぼけてる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
天草にすれば「実久の下位になるつもりない」ので、和睦後は知らんぷりしてたんでしょうねぇ(・∀・)ニヤニヤ
で、相良に対し、これまで通りの覚悟で頑張りますって、相良の方を薩州家より立ててます。

というのは、天草氏が天草地方において主導権を握るのに、相良の力を必要としてたからでしょう。
以下、読み下しの続きです^^/
**************************************
次 有馬晴純より申されし旨候条、
次に有馬晴純から言われた件なんですが、
上津浦方より申合せ候、御存知為さしめ候
上津浦方より話合いがあり、御存知の通りとなりました
啓---この場合は相手に対する敬意としての文字で訓読に含みません^^;
其面に異儀無くの由(よし)承り候、専一(せんいつ)に候、心緒(しんちょ)連々は申し談ず可(べ)く候、
内容に異議はないので受けました。専一にします。自分の気持ち色々は申し入れします。
専一---他の事を考えずに,ただ一つの事柄に心を注ぐこと。
尚、委細は松源寺から演説が有る可(べ)候、恐々謹言
なお、詳細は松源寺から話が有るでしょう。恐々謹言なぅ

上津浦というのは天草地方の国衆で、天文年間に天草氏と揉めてたんです。
そこに兵を入れて介入し、天草地方の上位者となったのが戦国相良氏でした。

詳細は不明なのですが、どうも同時期の天草地方に有馬晴純もチョッカイ出してたみたいです。
文書336にも松源寺の名があるので、連動してるのが判ります。
和睦において双方を使者として往還してたのでしょう。

つまり事と次第によっては有馬が天草地方の上位者になる可能性もゼロじゃなかったって事です。
ところが、天草地方において勢力のある天草氏が、薩州家・島津実久との和議において相良氏の助力を得ていた。
超近所な薩州家からの軍事的脅威に対抗するには、天草に近く&薩州家とエリアが隣接してる相良が一番頼りになる。
そのため天草氏は上位者を相良と定めたんじゃないでしょうか。

これが契機になったのか、天文年間において有馬氏と相良氏は書状のやりとり外交をしています
ただし有馬の天草地方への介入は諦めた(或いは関心を失った?)らしく、この後の「有馬~相良」間の書状で天草地方に関する記述はなくなります。

333、336、と今回の三通の文書は、天文年間において相良氏が天草地方を支配下に治めていく経緯が、ぼんやりと見えてくる史料なのです(*´pq`)

さぁ~って、次は有馬と相良と龍造寺だ!ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!

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