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ロン様作成_大内家紋ロゴ
ロン様作成_相良家紋ロゴ
趣味の相良・・・だったのだけど、意外に肥前や北九州関連文書が多かった^^;
図書館へ返却する都合もあるので、急ピッチで行きます(`・ω・´)キリッ
内容としては「相良家文書404_有馬晴純書状」と連動してます。
では、いざ!(`・ω・´)キリッ
緑文字---原文(翻刻版)ママ
(折封ウハ(上)書)形態:切紙
「 官
相良宮内大輔殿
御宿所 伊治」
「- ーー」(端裏切封)
返々、有間殿馳走、不及是非候、以後便、能々一礼被仰候て可給候、
今日従藤津発足申候、使儈帰参、目出候、近比御残多計候、必小者一人ニテ以下國可申述候、千々萬々申談候共、可爲同前候、返々旅中事、御懇之故、有間殿馳走候、可御心安候、目出以後信可令申候、恐々謹言、
(天文十四年)十弐月廿二日 伊治
相良宮内大輔殿
御宿所

小槻伊治(おづきのこれはる)
書状404で「官務」と呼ばれていたのは、彼の宮中における職名です。
「小槻」というのは「本姓(源平藤橘みたいなもん)」で、普段の名字は「大宮」。
ウィキペディアも大宮伊治になってます(お蔭で探すのに手間取ったil||li _| ̄|○ il||l)
「官務」というのは、一言で言うと「宮中の庶務を取り扱うのが仕事」
ということで、その職務の性質上、武家官位任官の口利きコネを持つ人物です ( ̄ko ̄)
さらに特筆する点は、小槻(大宮)伊治の娘が大内義隆の側室だったことで、娘は義隆の嫡男・義尊を生んでいます。
伊治は娘の縁で山口へ下向してたんですが、それが「大寧寺の変」の遠因ともなり彼も義尊も陶晴賢に殺されます。

それはさておき、相良義滋、晴広が任官と足利将軍家から「義」の偏諱を受ける際に、西国のドン・大内義隆の力を借りました。
禁裏(朝廷)への貢物や任官の際の装束などなど先例ノウハウ・レクチャーの為に、球磨(内容から類推)へ下向し指南したのが小槻伊治だったようです。
相良家にとっては、どれほど手厚く持て成しても「過ぎる」という事はない、大事な大事な客。
なにせ大内義隆の元へ帰還した後は、宮中に働きかけて奉書(庶務手続き)してもらわなきゃならないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
それで無事に送り届けるために、天文年間最盛期である有馬氏にボデーガード&接待(-人-)☆彡オネガイしたのでしょう。
で、この書状は小槻伊治から相良への礼状です^-^
【返々旅中事、御懇之故、有間殿馳走候、可御心安候】
道中は懇ろで、これは有馬からの馳走(奔走)です。御安心下さいね(^ -)---☆Wink
快適な旅だったようで何よりですが・・・馳走してくれた人の名前が当て字ってのが、いかにも時代ですねぇ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
宮中で庶務を担う人ですら、私的な書状では確認しないで当て字で済ませちゃうのが、面白いです^^
【今日従藤津発足申候】
本日、藤津を出発します~って挨拶で、特に重要な内容ではないので読み下しや意訳は割愛します。
え?中身が重要じゃないなら何故やるか、ですか?^-^
大内義隆に絡んで小槻伊治を紹介したかったのと、
有馬のガードで藤津に一旦入ったってことは「八代の湊」からの船便っぽいなぁ~と感じたから。
天文年間に「有馬⇔相良」間で廻船があった傍証にもなるかな?と思って記録として残しておきたかったのです^^
オタクの拘りですいません^^;
さぁ~次は秋月と肥前関連だ!ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!