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御内書案文(堅紙)
對相良、義字、官途修理大夫事、任先例遣之處、其例有間敷通信上、被思食不審候、雖然、於此儀者、一度被成下候之条、向後可得其意、委細申含(上野)輝廣、差下之候、猶晴光可申候也
(永禄八年)
三月五日 御判(足利義輝)
大友左衛門督入道(宗麟)とのへ
(細川藤孝)(花押)
すごいな・・・私的な書状とはいえ、宛名の位置が日付の下側で、更に敬称も「との」で平仮名^^;
剣豪将軍が宗麟へ言い訳してたのは、話としては知ってたけど、
まさか中身が こんな上から目線だったとは^^;
ホントに六か国守護職の宗麟へ、この下書きのマンマで送っちゃったのかが気になるぅ~( ̄ω ̄A;アセアセ
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←御不審の大友宗麟公(笑
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相良に對(対)して「義」の字、官途「修理大夫」の事、
相良に対して義の偏諱と修理大夫の任官の事だんだけど
先例に任して遣わすの處(ところ)、其の例はありまじく通信の上、不審に思食(おぼさ)られ候
先例にならい与えられるべきところなのに、その例はないと連絡があり、不審に思われているとの事。
有間敷(ありまじくorあるまじき)相手へ敬意を払う場合に使う漢字で(一応)ここまでは気を使ってます^^;
然(しか)りと雖(いえど)も、此の義に於いては、一度成し下され候の条、
そうだとしても、今回のことについては、もうやっちゃった事なんだよ!!!(# ゚Д゚)・;'.
ほぼ捨て台詞ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
向後(こうご)は其の意を得る可く、委細を上野輝廣に申し含んで、差し下すの候、猶(なお)晴光へ申し可く候也
これからは、そちらの意見を入れますから、詳細は輝廣に伝え、なお晴光にも伝えます(´・д・`)
(文中の人物については、度忘れしちゃって特定できんかった^^;)
でもって一度やっちゃえば「先例アリ」になるんで『今後は意見聞く』と言われても、全くフォローになってないという・・ゲフゴホ
おほほほ・・・・剣豪将軍の開き直りの言い訳ですわ♪
大友宗麟へ宛の御内書(私的な書状)の「案(下書)」を、細川藤孝(後の幽斎)が相良へ渡してたんですね。
意図としては『宗麟が文句言ってるけど、こんな風に返事するから大丈夫だよ』って事だと思います^^
この下書きのままだったら、余計に怒らせたんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
永禄八年三月五日発給の、細川藤孝による奉書(事務手続き)によって、相良義陽の「義」の偏諱と「修理大夫」の任官が正式に降りました。
相良頼房から相良義陽になったのは、この時からです^-^
宗麟が相良家への偏諱や任官にクレーム出したとか出してないとか、ハッキリ判る史料は見つけられなかったんだけど、
|先例ないのに不審|_ ̄)じぃー、って宗麟が言ってたのが前段階としてあったみたいです^^;
ただ「義」の偏諱のほうは先例があるので、宗麟がホントに不満だったのは「修理大夫」任官の方ではないかとも思う^^;
偏諱と任官にあたり相良家では、将軍家はもとより生母に側室、細川藤孝だけでなく使者として球磨へ下向した櫻本坊という人物にも進物(金品などの贈答品)を贈ってます。
櫻本坊が来たときには義陽は御門(人吉城?)まで出迎えたとあります。(相良家文書512)
ちなみに、将軍使者も佐敷から有馬へと帰路コースしてるんで、やはり有馬と相良の間には、海路による外交上の往来があったのでしょう。
偏諱・任官のお祝いムードが続いていただろう同年5月に剣豪将軍は、松永と三好三人衆の手勢に討たれて亡くなります。
めまぐるしく動く中央情勢の影響が、次に読み下す書状に出てくるのですが、それは・またの話 by^-^sio