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![系図・千葉氏(鎌倉用)]()
ロン様作成_肥前千葉家紋ロゴ
下総千葉氏が何故 肥前千葉氏と分裂したのか。
前回最後に書いたように下総千葉氏が鎌倉へ行った理由は「元寇」です
元が攻めて来る~~~ってことで、鎌倉幕府では九州に領地を持つ御家人に動員をかけました。
下総千葉氏も肥前小城郡惣地頭だった関係で、当主の頼胤が九州の地へ赴いたのです。
ところが頼胤は戦で矢に当たり戦死。享年34歳。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
そこで今度は僅か12歳の嫡男・宗胤が九州へ赴くことになったんです。
兄・宗胤が九州へ行く間、留守を預かったのが2歳下の弟・胤宗です。

諱ループよりクラクラする文字逆転ミラー系図。
これしか無いのに、前に地名つけないと絶対間違う罠のような諱・・・il||li _| ̄|○ il||l
ちなみに千葉氏の通字(つうじ=代々諱に必ず入れる文字)は「胤(たね)」。
で兄弟の共通する「宗」の文字は、北条時宗から偏諱(へんき=名前の文字を拝領する事)です。
この時期の御家人は、実質の支配者である得宗家(とくそうけ=北条氏)当主から偏諱を受けていたんです。
え~~と、拝領した文字を前か後ろにつけるかで、どっちが嫡子が区別できるんですが時代が下るにつれ何だかカオスになっていく諱ルール^^;
諱を見ると「偏諱」の時点では、弟は庶子扱いね^^b
で、この時なんですが、どうやら兄で嫡男・宗胤は元服はしたけど正式に家督を継がないまま九州へ行ったみたいなんです。( ̄ω ̄A;アセアセ
代々の当主が名乗る「千葉介」を名乗ってないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
まさか九州で骨を埋めることになるとは想像してなかったんでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ
肥前が気に入って~~~というわけではなく、兄・宗胤は帰りたくとも帰れませんでした。
なぜなら元寇が一段落しても、元の再度の侵攻を警戒した鎌倉幕府により「鎮西御家人は(中略)鎌倉へ参向すべからず」と帰還を認めなかったからです。
更に兄・宗胤は大隅国守護職の要職につき、鎮西での政務におわれます。
で、そのまま肥前の地で30歳の若さで亡くなります。
慣れない地で苦労したのでしょう・・・長命してたら下総へ帰れたかもです。 (゜-Å) ホロリ

細かい経緯は解らなかったんですが、鎌倉幕府では兄・宗胤の方を庶流(肥前千葉)とし、弟・胤宗の方を下総宗家として扱ってました。
兄弟それぞれの息子が、それぞれの家督を継ぎましたが、肥前・胤貞は「自分が正当嫡流」という思いがありました。
まぁ、無理のない話です。ショボーン..._φ(・ω・` )
鎌倉へ出仕すると従兄弟で下総・貞胤の下座に着かなければならないのは、愉快な事ではありません。
国土防衛の礎として頑張ったのに、宗家惣領の座から滑り落ちるなんて、こんな理不尽な話はないでしょう。
肥前・胤貞自身は、活動拠点の殆どは下総でした。
亡き父・宗胤(本来の嫡男)の遺領が下総国千田庄にあり、そこを拠点としてます。
足利尊氏の打倒鎌倉~建武の新政になると、肥前・胤貞は新政府に仕え、鎌倉方だった下総・貞胤と交戦しています。
とはいえ南北朝の動乱期に、肥前の領地と下総にある領地、両方統治するのは物理的に無理な話です^^;
肥前千葉の小城領地は宗胤の子・胤泰(胤貞養子)が継ぎ、
(肥前・胤貞の実子(3代目と4代目)が早世したので実弟を養子にした)
肥前千葉の下総領地は胤貞の子・千田氏が継ぎ。両家は分れます。
兄・宗胤系と弟・胤宗系の争いは、そのまま千田家と下総千葉家の争いへと引き継がれるのです。
さて、肥前千葉の初代は肥前で没しましたが、2代~4代までは基本として下総の人。
戦で九州に行くことはあっても、帰る場所は下総なんです。
2代目胤貞も下総へ帰還途中の三河で没してます。
名実ともに「肥前千葉氏」としてのスタートは、5代目胤泰からとなるのですが、それは・またの話 by^-^sio