御内書(私文書)将軍の手紙外交が炸裂してますが、それが超ムカつくんでサクっと読み下します(爆
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緑文字=翻刻版本文
青文字=読み下し
赤文字=意訳
(折封ウハ(上)書)切紙、折封(斐紙)、包紙(近代のものヵ)
「相良修理大夫とのへ」
就今度京都不慮之儀、至甲賀和田取退候、
今度の京都不慮の儀に就いて、取退(とりのき)甲賀和田へ至り候、
京都不慮(永禄の変=足利義輝が殺された)ことで、(六角らの看視下を)脱出して甲賀和田へ入りました。
(※矢島館・守山市矢島町に入ったのが10月21日)
就其、近國出勢之段申付、無異儀候間、急度可令入洛覚悟候、
其れに就き、近国出勢申し付けの段、異議無く候間、急度(屹度)入洛(じゅらく)令(せ)しむ可(べ)く覚悟候
それについて、近国へ出兵を申し付けの話、異議はないでしょうから、その間に必ず京都へ入る覚悟です(`・ω・´)キリッ
(はぁ?援兵出せって事?( ゚д゚)ンマッ!!)
此度被抽忠功者、可爲感悦候、併頼入候、
此の度の抽(ぬき)んでる忠功は、感悦(かんえつ)爲(な)す可(べ)く候、併せて頼み入り候
今回の抽(ぬき)んでる忠義が感動で嬉しいものになるよう、(-人-)☆彡オネガイします。
(まだ返事する前から期待されても・・・・^^;)
爲其差下上野大蔵入道候、猶(細川)藤孝可申候也
其れを爲す上野大蔵入道を差し下し候、猶(なお)(細川)藤孝へ申し可(べ)く候也
其の為に御供衆の上野大蔵入道を行かせます。なお細川藤孝へも伝えます。
(この御内書届けに将軍家御供衆が球磨に来ちゃったよ!Σ(´Д`;) はぅ)
(永禄八年)←年欠書状ですが内容上、疑いようのない年度推定^^
十月廿八日 (足利義昭)(花押)
相良修理大夫とのへ
料紙は略式の切紙、宛名は日付よりした、敬称も「との」で平仮名って、この軽い扱いはどういうこと!?
お願いする立場で上から目線!!
内容だって援兵に異論ないだろうという決めつけ!
恐々謹言とか書き止め文言もない、置き字(也とか)だけで言いっぱなしの断定口調!
まだ正式に還俗もしてない、無位無官の自称将軍が調子こくんじゃねぇ!!(# ゚Д゚)・;'.
と区切り線の中で言ってるのはシオで、別に相良義陽が そう言ったわけじゃないので誤解なきように~オホホホー
義昭の性格が見えるようで、別時代の他人事ながらムカムカしますわぁ~~(・A・)イクナイ!!
まぁ、(頼み方が失礼なだけで)次期将軍候補に頼られること自体は、相良家にとって悪い気分じゃないので、
書状は大事に保管してた(包紙は相良側で用意したっぽい)みたいです。
義昭ってば、この調子でアチコチに書状を出してたんだろうか・・・^^;
はっきり言って応援する気が萎える・・・^^;
永禄八年の義陽は豊福城攻略で、しばらく人吉を離れてたんです。
攻略に成功して人吉に戻ってヤレヤレと思ったら、想定外の客が来たわけで・・・^^;
まぁ、はるばる下向した(らしい)御供衆へストレートに拒否したら角が立つから、なにがしか進物(しんもつ=金品など)贈って適当にお引き取り頂いたんじゃないかしらん~
それにしても自分は未だ無位無官なのに、修理大夫の義陽に対してハナから上から目線なのには驚いたわぁ^^;
思いっきりキャラが立ってるのが面白いっちゃ面白いけど・・・(´・д・`)・・・疲れる人ですわ(爆
この義昭からの『自己中な御内書』は時々来てました(爆