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緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
至筑前上國之由、可然候、本意不可廻踵候、猶隆満宗長可申候也、恐々謹言、
(天文十五年カ)
三月二日 義隆(花押)
龍造寺宮内大輔(胤栄)殿
えっと・・・後藤家文書に龍造寺胤栄関連が一つあったのをスッコーーンと忘れてましたの(←おぃ)
後藤家書類とあるように、後藤家が貰った書状ではなく保管してたもののようです。
書状の状態が(折封とか捻封とか)ないので、書状のみ。
書写でないのは義隆の花押があることで確認できます。
なんで持ってたか経緯は判りません^^;
それと年度推定はシオではなく、佐賀県史料集成編集のものです。
筑前上国に至(いた)るの由(よし)、然(しか)る可(べ)く候、踵(きびす)を廻(めぐ)らす可からず本意候
上国(じょうこく、じょうごく)---律令国の等級区分の一つ、上から二番目の位の国で延喜式による上国に筑前国があります。
不可廻踵候---「史記」呉起伝より_かかとをめぐらすほどの時間もない=すぐある事態になってしまう。
てことを盛り込んで雰囲気意訳~~
筑前に着いたとの事、しかるべくします。すぐ事態(戦?)になるのは望むところです。
猶、隆満と宗長に申し可く候也、恐々謹言
大内義隆が伝えておくね~といった二人の経歴はウィキペディアからデータ引用^^/
●陶 隆満---没年不詳、
義興・義隆と大内当主に仕える。奉行職として義隆に重用され隆も義隆からの偏諱。
陶一族のため大寧寺の変では陶晴賢に協力するも、後に降伏し毛利家臣となる。
●杉興重(宗長)
山城国愛宕郡代、8人の大内評定衆一人、大内義興より1字を賜う。
天文15(1546)年1月に龍造寺胤栄と西千葉の胤連が、少弐+有馬勢の攻撃を受けました。
いったん敗れ引いたんですが、龍造寺胤栄は大内義隆の助勢を受けて少弐勢を破ってます。
同年の7月25日に大内義隆は胤栄の戦功を賞しています(龍造寺家文書112)
で7月27日に大内義隆は胤栄を肥前代官に任じています(龍造寺家文書113)
どうやら大内の助勢を受けて少弐勢を破った前後に、胤栄は筑前に入ったみたいです。
で、大内の重臣が言付かった義隆からの指示?返事を受けたのでしょう。
大内義隆にとって少弐氏と龍造寺が敵対関係になったことは、大歓迎の事態です。
書状は当然ながら上位者から下位者への形式ですが、名前の位置が月日より一文字分だけ下。
官位名も入って敬称は殿の漢字。
と短い文章ながら丁重な扱いをしてます。(*´pq`)
龍造寺胤栄関連の史料は少ないんで、なかなか貴重な文書なのでした^^