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以前、データ集めしてた時にザックリ一話でまとめた【肥前千葉氏】がある。
その後、自分の中で肥前千葉の存在が大きくなり、一度連載したのが旧シリーズ^^;
当時は提供してもらった北肥戦誌(意訳抜粋)とWEBで集められるデータのみで記事構成した。
その後、色々と支援受けて一次史料入手し、自分でも古書などを購入しコツコツ編纂資料収拾~
で、現在は肥前中世史を専門に研究中^^;
本腰研究で判ったんだけど、平成に入ってから肥前千葉氏の研究が進んでた( ゚д゚)ンマッ!!
(佐賀大学地域学歴史文化研究センターHP参照)
肥前千葉氏に関する新たな論説も発表され、旧シリーズの加筆では納まらないレベルのデータがぁぁぁぁああああああああああ
ゲフゴホ・・・で、カッコよく言うと【再編纂】、ぶっちゃけると【色々違ってたんで、やり直し】してます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さて肥前千葉氏の家督に最初に介入されたのが室町時代、6代将軍・義教の頃。
で、その時の大内当主は大内持世。
大内持世はライバル少弐を滅亡寸前まで追い詰める事には成功したものの、肥前千葉への家督介入には失敗した。
7代目胤鎮は、大内が擁立した8代目胤紹(胤鎮弟)と その嫡子・政胤を殺し、大内の画策によって奪われた家督を取り戻す。
8代目胤紹は、大内のバックアップで室町幕府から正式に当主と認められているため、系譜上8代目とカウントされている。
つまり、この大内介入で肥前千葉は【嫡流・胤鎮系譜】と【胤紹系譜】の二つに分かれたんです。
胤鎮の追捕を逃れた胤紹次男・胤朝と三男・胤盛が大内の庇護下に入った。
肥前千葉にとってラッキーだったのは、大内持世が「嘉吉の乱」の巻き添えで死亡したことです。
家督のことで大内は混乱し、その間に肥前千葉⑦胤鎮は独自の勢力として力を付けていった。
「国主様」と崇められた⑦胤鎮は1455年に56歳で波乱の生涯を閉じた。
家督を継いだのは次男で18歳の元鎮(嫡男は12歳で早世)だ。
胤鎮に殺された胤紹が幕府の正式承認を受けた8代目なので、元鎮は9代目になる。
肥前千葉の最盛期というと一般的には10代目教胤とあるのが多いが、実際は胤鎮~元鎮が最盛期を迎えた当主のようだ。
このころは天変地異が非常に多く、そのために改元も多い。
北肥戦誌によると、地震、落雷、洪水⇒浸水、台風⇒作物被害で飢饉、太陽が二つに割れて見える幻日現象も発生している。
にも関わらず肥前千葉の台所が裕福だったのは、朝鮮との交易によるものが大きい。
バブル9代目元胤は、牛頭城下で犬追物を開催している。
動物愛護の観点から現代では作法が伝わるのみで開催はされていないが、
鷹狩より犬追物の方がステータスな武家貴族スポーツで、金もかかる( ̄ω ̄A;アセアセ
更に元胤は猿楽を好み、舞台を作って京都から観世太夫を招いた。
元胤は居城の牛頭城下を国府と称し、もともとの国府を府中と呼ばせて区別するほど勢力を誇った。
国府(牛頭城下=小城)の繁栄ぶりは肥前の小京都と呼ばれるに至る。
北肥戦誌曰く「千葉家全盛期とぞ見えし」
この間にも太陽が3つ並んで、しかも二年続けて出現(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
疫病で地下人が多数死亡したため、諸国の国人たちが動揺した。
そんな人心不安定な中、寛正5年(1464)10月29日、9代目千葉元胤が28歳の若さで急死する
元胤は男子がいなかったので、亡き7代目胤鎮の三男・教胤が家督を継いだ。
教胤は未だ14歳。
この状況を大内氏が指を咥えて観ているはずがない。
大内は肥前千葉の縁戚で同盟関係である肥前今川家に目をつけるのだが、それは・またの話 by^-^sio