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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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ゆるふわ考察~秀吉の神武分離(後編)

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日本古来の祭政一致の歴史は後醍醐天皇で終わった。
だが南北朝の争乱は、在来の領主が衰微する一方で各地方の国人領主を活性化させ、神社系武家が勃興する。

神社系武家(仮称)とは、当主(または総領家一族)が神社の神職を兼務している武家のことで、いわば「地方版祭政一致」です。
土地の歴史とともにある氏神。
その氏神と一体化した武家の権威と在地豪族への影響力は絶大で、上位者である守護職でもウッカリ蔑ろにできない勢力でした。

豊臣秀吉が《神様と武家を分離した》というのは、あくまでも自分の持論ですが 論証するには未だ未だ史料検証不足^^;

というのも秀吉は「神武分離」に関しては、キリシタンへの制令のような制令を特に出してないからです。
その多くは「反抗的な国人領主への仕置き」などに包括されている為、各地方における神社系武家への仕置きがどうなったか細かくリサーチしなきゃならない^^;

但し、少なくとも自分が専門にしている九州においてであれば、
秀吉は「土地の氏神」と「氏神と一体化している武家」を引きはがす意図が明瞭にあったと思われる処置・態度をしています。

前編であげた例で行くと
・宗像神社~宗像氏
九州征伐で戦功あった一族家臣など個人への加増で、宗像氏は嗣子がいないということで所領没収。
家紋・宗像 (ロン様作成_宗像氏家紋ロゴ)


・英彦山(九州における山伏の総本山)
山伏の総本山ですが神仏習合だった時代だから僧兵がいました。
最盛期の僧兵は数千名で、筑前秋月氏と婚姻による軍事同盟の関係だった。
キリシタンだった大友氏の焼き討ちの方が有名だけど、秀吉からも攻撃を受けて降伏し武装解除することによって生き残る。
その混乱の為か、英彦山座主の系図と婚姻関係だった秋月氏系図とは、関係関連性が繋がらずカオスになってます(-ω-;)ウーン
家紋・秋月 (ロン様作成_英彦山と同盟してた秋月氏家紋ロゴ) 

・阿蘇神社~阿蘇氏
島津領内で起きた梅北一揆に加担した咎で僅か12歳の少年当主が斬首され、嫡流断絶。
ちなみに一揆当時は11歳・・・子供だよ・・・どう加担するんだと・・・il||li _| ̄|○ il||l
実弟が残り武家でなく阿蘇神社宮司家として存続、現在まで続く阿蘇氏は生き残った実弟子孫です^-^
家紋・阿蘇 (ロン様作成_阿蘇氏家紋ロゴ)

・高千穂神社~三田井氏
高橋元種と所領問題でトラブルとなり滅ぼされる。
そのトラブルというのが秀吉発給の宛行状で、三田井氏の所領が宙ぶらりんになってしまったから。
通説では高橋元種の讒言により「三田井氏逆心」を信じた秀吉が「三田井征伐」を命じた。
このあたり秀吉が一方的で三田井の言い分を確認することなく、高橋元種寄りの裁定を下したことになる。
家紋・高橋 (ロン様作成_三田井氏を滅ぼした高橋氏家紋ロゴ)

・川上社(与土日女神社)~肥前千葉氏
大宮司職だったのは千葉胤連までだったらしく、以降の当主は佐賀藩鍋島氏に仕えた。
家紋・肥前千葉 (ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ)

阿蘇氏、宗像氏、三田井氏など、武家としての歴史と氏神との関係性が混然一体の如く古くから土着している家は、武家としての命脈を完全に断たれています。

一方で、肥前千葉氏のように神社との繋がりが後出しジャンケンタイプは、神社と離れ家臣団に入る事で武家として残っています。

英彦山は、本願寺のように武装解除・軍事力を手放す事で残りました。

秀吉は闇雲に宗教弾圧や国人領主を排除したわけでなく、その土地・氏神との繋がりの濃さなどを基準にし、仕置きの線引きをしてる事が窺えます。

家康&江戸幕府が、意図したか又は結果としての事象かは別にしても、
【神が先で仏が後だった神仏習合を、徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している】
という状況になったのは、豊臣秀吉が「氏神」と「氏神と一体化した武家」を前段階で切り離しているからこそです。

豊臣秀吉は、
地方に勢力を持つ武家から氏神・神社という権威を失くし、
神社からは武家として保持していた「地上の権力」を失わせました。
つまり神様は祭祀として祀られる(だけ)の人畜無害な存在へと昇華させたのです。


徳川家康
神仏習合している仏教の方を統治支配ネットワークに組み込んだ。
仏教界を支配下におくことで民衆を掌握し、仏教と習合している神社側も幕府にとって危険にならないようコントロールしてたんです。

信長から受け継いだ、秀吉が地均しした後に、
家康が、数十年かけて祭政一致(帝が直接政治する)に戻る事がないように手を尽くして築き上げた江戸幕府の宗教政策。

まさに芸術品とも言える完璧に近い宗教統制を、
明治政府は自分たちのスローガンである王政復古に合わせて祭政一致に戻そうとしたのです。

草場の影で秀吉と家康が悶絶してますな ( ゚Д゚)y─┛~~
明治維新は仏教界にとり予想もしてなかった法難?災難をもたらすこととなります。

ここから先は「古代から現代③~宗教と政治」に話が続きます^^;
前後の整合性のため、若干編集しました。

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