ちょ~~車のフロントに霜降臨キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
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=== (前編)秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか 清水有子 ===
霜降りてるのに「読書の秋」が終わってなくてすいません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ロン様作成_豊臣家紋ロゴ
まず「伴天連追放令」に関する法令は二つあります。
天正15年(1587)6月18日付「覚(おぼえ)」
・国内外で伊勢神宮にのみ、数点の写本が残る法令
・「覚」は全部で11ヶ条
(1~3条&6~9条)
給人(きゅうにん=領主)が領内におけるキリシタンへの改宗を強制しているが、それを禁じる
(4・5条)
高禄武士のキリシタン入信は許可制とする
(10条)
「大唐・南蛮・高麗」への人身売買禁止
(11条)
食牛馬売買禁止
領主が改宗を強制しているのは貿易がらみか本人の信仰心からかは、ケースバイケースになると思います。
いずれにせよ、領主や高禄武士が領民を強制改宗させ続けていれば、キリシタンは本願寺を超える勢力になる。
秀吉は本願寺門徒より伴天連門徒をつくることのほうが危険だと認識してました。
天正15年(1587)6月19日付法令←一般に伴天連追放令と呼ばれてるのはコッチ
・松浦家ほか各地に写本あり
(第一条要旨)
日本は「神国」であり、キリスト教は「邪法」であるとする
(第二条要旨)
邪法の理由としてキリシタンの寺社破壊問題
(第三条要旨)
伴天連の国外追放を命じる
(第四・五条要旨)
ポルトガル貿易については、商売の事は別の事なので続けるように命じる
ちなみに秀吉は前年までは、キリシタンを保護するスタンスで「宣教保護状」を出してました。
それを受けて、イエズス会は各地の大名領主から「布教許可証」を貰ってたんです。
研究者の間で見解が分かれているのは、これらの法令を禁教令と看做すか否か、って事だそうです。
渡辺世祐氏説---秀吉の意図は禁教ではなく制限である
山本博文氏説---発令対象別であると指摘
(18日令が伊勢神宮の求めに応じて出した「禁制」、19日令が宣教師宛への命令)
いやいや、これは禁教令だよ~んと解釈する研究者もいるそうな__φ(.. ) メモメモ
とにかく18日令⇒19日令へのニュアンス激変は、
秀吉がキリシタンに対し「許可(規制・統制)」から「禁教」へと方針転換したことを表す。
更に18日令&19日令は、内容から鑑み国内外に周知・表明したんだ、
というのが研究者たちの共通認識なんだそうです。
では、なじぇに急に方針転換したのか~~長くなるんで続きます^^;