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自分は肥前の戦国は千葉氏の東西分裂からじゃないかな~と思っていました。
このあたり前後の史料を読んで感じた自分の直感なので、特に根拠はありません。
あえて言うなら、東千葉氏の祖・千葉胤盛の活動が文明年間から見られるようになる事です。
千葉胤盛は「兄(胤朝)よりいと早く死去しぬ」とあったのですが、河上神社文書により胤朝以後の1497年まで存命していたことが判明しており、胤盛は「東千葉氏の祖」と呼ばれています。
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7代目・胤鎮と8代目・胤紹による家督争いで、胤紹は嫡男・政胤と共に討たれました。
で、この時点で4男・胤将は出家しまして(後に担ぎ出された)
次男・胤朝、三男・胤盛と息子の興常が、西国のドン大内氏を頼りました。
肥前千葉総領家では、胤鎮の後を継いだ元胤が急死し(寛正5(1464)年10月)僅か14歳の教胤が家督を継ぎます。
以下、千葉氏HP参照した話なんですが、
次男・千葉胤朝は大内政弘の力を借り九州探題・渋川教直と組んで、若年当主・教胤を追い出そうと画策します。
三男・胤盛の動きは不明ですが、この時点では兄弟ともに大内の後ろ盾を得ていたので行動を共にしてたんじゃないかと。
胤朝の計算が狂ったのは、当然【応仁の乱】
恃みとする大内政弘はソッチが忙しい、さらにドンデン返しだったのが少弐政資が華麗に大宰府に復活しちゃったこと∠( ゚д゚)/ 「アレ?」
大内勢は押され気味で「少弐中興の少弐政資」は勢力を拡大する。
どうやら、このあたりから胤朝、胤盛兄弟の政治方針スタンスが別れたらしい。
あくまで大内を頼る千葉胤朝。
今は勢力が上の少弐を頼るべきとする千葉胤盛。
この二人がスタンスを異にした時から、肥前千葉氏の西と東が分裂する兆しとなるのです。
千葉胤盛は千葉氏の内紛が始まりゴタゴタする間隙を縫い、牛頭山城を奪い千葉氏総領として行動していたようです。
それが文明4~文明8のこと。
千葉氏HPでは、少弐から胤朝に対し城を胤盛に渡すように圧力があったんはないかと推測してます。
城を出た胤朝が入るとすれば、晴気城しかないでしょう。
その前に起きた肝心の千葉氏内紛は、最後の嫡流当主・教胤の死から始まるのだが、それは またの話^-^